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プロ・ゴルファー「タッド・フジカワ」インタビュー

2008年6月10日 07:21 | 2007~2008年冬号 インタビュー オアフ島/ワイキキ 

 スポーツを問わず、ただでさえ大柄な選手が多いアメリカでは、155センチの身長はハンデとなる場合が多い。
しかし、16歳のプロ・ゴルファー、タッド・フジカワのプレイは、そんなことも忘れてしまうほどパワフル。
柔道からゴルフへと、その才能を開花させた。ゴルフ界の未来を担う若きヒーローに、将来の夢などを聞いてみた。

Tadd Fujikawa(タッド・フジカワ)

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1991年1月8日生まれ。現在モアナルア高校の2年生。幼い頃から柔道に励み、12歳でゴルフに転向。2006年全米オープンに史上最年少の15歳5カ月で出場して話題に。2007年1月のソニー・オープンでは、史上2番目の若さで予選通過。2月のパール・オープンで優勝。155センチの小柄な体格からは想像できない、ダイナミックなプレイが観客を魅了する。16歳でプロになった。


世界のゴルフ・ファンを魅了する 16歳の日系高校生プレイヤー

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アロハストリート(以下アロハ):
小柄な高校生が、世界を相手に大活躍ですね。まずはゴルフを始めたきっかけを教えてください。

タッド:
僕は予定より3カ月早く生まれ、この世に誕生した時は超未熟児。身体も弱く、小さい頃に5回も手術をしたんです。だから強く育つようにと、物心ついてから柔道を始めました。

途中で、その柔道でもっと強くなれるようにとゴルフを始めたのがきっかけですね。グリップを強くして、柔道に活かそうと思ったんですけど、ゴルフもどんどんおもしろくなって、12歳の時に柔道をやめて、ゴルフに集中することに決めました。

アロハ:
柔道もかなり強かったのですよね?

タッド:
全米大会で優勝したこともありますよ。おかげで身体は健康になり、ここまでできたのは本当にミラクルだって言われるけど、育ててくれた両親や、僕にゴルフを教えてくれたおばさん、いつも励ましてくれるおばあちゃんたち、家族みんなのおかげだと思っています。

アロハ:
おばさまがゴルフのコーチを?

タッド:
ラッキーにも、おばさんがハワイ大学の女子選手のコーチだったので、小さい時から指導してくれました。一度教えてもらったことは、次までに必ずできるようになりたくて、ゴルフも一生懸命練習しましたよ。
 
アロハ:
ラッキーにも、おばさんがハワイ大学の女子選手のコーチだったので、小さい時から指導してくれました。一度教えてもらったことは、次までに必ずできるようになりたくて、ゴルフも一生懸命練習しましたよ。

タッド:
ご家族の中にコーチがいらしたのですね。もちろん才能と努力の積み重ねがあったから、タッドさんはここまでになったと思うのですが、柔道だけでなく、ゴルフも大好きだったんですね。

アロハ:
ゴルフは本当にチャレンジングで、何が起こるかわからない、非常にタフなスポーツです。柔道は体重別で対戦するけれど、ゴルフはみんな同じ条件の中で戦う。だから勝つチャンスもみんなに平等にあるわけです。そこが柔道とゴルフの一番の違い。ゴルフで勝ち進んでいくには、やっぱりもっとたくさんのことを学んでいかなくちゃいけないなと、毎日感じています。プロになったと言っても、まだ16歳なので…(笑)。

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タッド:
プロになって、何か変わりましたか?

タッド:
プロになるのは僕の夢だったので、両親とも時間をかけて話し合い、OKをもらって憧れのプロになりました。ソニー・オープンのあと、自信がついて、パール・オープンで勝つことができましたが、このときに得た自信は、本当に自分の助けになっていると思います。とはいっても、まだ特定のスポンサーがいないので、ツアーに参加するための旅費、ホテル代、レッスン代などは自分持ち。まだまだお金はかかりますけど(笑)、家族やみんなに助けてもらいながら、学校と試合を両立させていきたいですね。

アロハ:
2007年は日本でもプレイされましたが、世界を飛び回っていると、勉強する時間が取れないのでは?

タッド:
学校へ行けないときはインターネットで勉強を続けているんですよ。日本へ行ったのは2回目でしたが、大好きです! 日本では美味しいものを食べ過ぎて、ちょっと太って困りました(笑)。

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アロハ:
そうだったんですね。日本では、同じくティーンエイジャーの石川選手が注目を集めていますが、ご存知ですか?

タッド:
もちろん! 彼のプレイはとてもグッドですね。ぜひいつかプレイしてみたいです。この間は、宮里藍さんと一緒でした。彼女もとてもいい人で、ちょっと柔道の田村亮子さんを思い出しました。

アロハ:
ヤワラちゃん?

タッド:
はい。彼女は、柔道をやっていた時の憧れの人。体が小さいのに強いから、ずっと目標でした。ほかにも、古賀さんや野村さんとか、軽量級の選手が好きなんですよ。

アロハ:
タッドさんのバランスのよさは、やはり柔道が基本になっているのですね。2007年は最年少で全米オープンに参戦、その後ソニー・オープン予選通過、パール・オープン優勝と、活躍が続きましたが、今後の夢というと?

タッド:
みんな同じだとは思いますが、まずはいい選手になることですね。もっと経験を積んで、できるだけ多くのトーナメントに参加して、たくさんのことを学びたいです。外国に行くと、ハワイの良さもよくわかるので、ここで感じるお互いを思いやる心もずっと大切にしていきたいですね。

アロハ:
ハワイはゴルフをやるのにも最高の場所ですよね。

タッド:
メインランドと比べると、風が強いし芝も違うので、大変な面もありますが、コースに出ればとにかく気持ちがいいですよね。自分にとっては、ワイアラエ・カントリーがベスト・コース。毎日プレイしても、同じコンディションの日は2度とありません。ハワイには気軽にゴルフが楽しめるコースがあるので、もっと多くの方がハワイでゴルフをやってみたいと思ってくれればうれしいです。

取材を終えて
 名門ワイアラエ・カントリークラブに現れたタッド・フジカワ君は、弱冠16歳ながら大物感を漂わせるたたずまい。ひとことしゃべり出すと、なんともかわいい、でもしっかりした高校生なのでした。インタビューの翌日には、ツアー参加のためフロリダへ。その活躍ぶりは連日新聞をにぎわし、日本のハニカミ王子に負けないくらい注目を集めています。頑張れ、ハワイのプリンス!

※アロハストリート2007年~2008年冬号に掲載した記事です。

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「ハワード・ダイカス」インタビュー

2008年1月30日 16:28 | 2007年秋号 インタビュー オアフ島/ワイキキ 

 ハワイの朝のテレビニュース。オフィスのデスクに座ったまま、ハワイの最新ビジネス・ニュースを解説するハワード・ダイカス氏のユニークなルックスと語り口は、お堅い経済界の出来事を朝の楽しみにする人を増やしてしまった。ビジネス経済ニュースを「おもしろい」と思わせる独特の手法と、これまでのキャリアにも影響を与えたというハワイでの生活について聞いてみた。

Howard Dicus / ハワード・ダイカス

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ワシントンDCでジャーナリストのキャリアをスタート。30年以上活躍した後、2001年にハワイへ移住。地元のビジネス新聞パシフィック・ビジネス・ニュース社に入社後、ラジオでニュースのコメントを担当する傍ら、テレビ局KHONの朝の番組でハワイの最新ビジネス・ニュースの解説を担当し、一躍人気者となる。今秋に、テレビ局KGMBの朝のニュース番組に活躍の場を移したばかり。



ビジネスをエンターテインメントにするジャーナリスト

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アロハストリート(以下アロハ):
ビジネス・ニュースという決して万人向きでない分野ながら、ダイカスさんは子どもから大人まで性別を問わず幅広いファンをお持ちですよね。

ダイカス:
「ビジネス・ニュースにファン」というのも妙ですが、おかげさまでいろいろなところで声をかけてもらうようになりました。ニュースの内容より、手書
きのグラフや、「そんな格好でテレビに出るの?」と言われるほどの「洗練されていなさ」について言われることの方が多いですけど(笑)。でも、自分に関係のない世界だから…、と関心の薄かった人が、ビジネスの分野に興味を持っていただけるのはうれしいですね。堅いイメージを持たずにニュースを見てもらえれば何よりです。

アロハ:
確かに、ビジネス経済ニュースと聞くと、「難しそう、つまらなさそう」という先入観が働いてしまいがちですよね。

ダイカス:
私にとっても、すべてのニュースが面白いというわけじゃないんですよ(笑)。ビジネスの分野は多岐に渡るものですから、専門的な知識がないとニュースを理解できないことが多いのも事実。専門家が使う用語は、その分野に明るくない人には外国語と同じですから。専門家がじっくり説明してくれたのに、「で? 結局はどういうことなんですか?」という…(笑)。ジャーナリストの私がそうなのですから、専門家の言葉をそのままメモした記事が、読者にどれだけ理解されるか…。私は「説明のプロ」を自称しているので、訳のわからないビジネス・ワールドをいかに簡単に説明するかを日々実践しているわけです。

アロハ:
ダイカスさんといえば、テレビのニュースでノートに手描きしたグラフや図を使うのがトレードマークですよね。そのノートが、近所のスーパーで売っているお手ごろ価格の黄色いやつ、というのも更に親近感を覚えます(笑)。

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ダイカス:
いまどきのテレビニュースにはありえない手法ですよね(笑)。あるとき、ハワイの健康保険会社の利益率についての記事が地元新聞に載ったのですが、非常にわかりにくい内容だったので、朝のニュースで解説するために、私なりにわかりやすく図に描いて、そのままノートをテレビカメラに向けてしまったのが始まりです。あとでプロデューサーに怒られるかと思ったのですが、逆にそのアナログ度が大受けしてしまったというわけで…。どうも今ではそれを楽しみにしている人が多いみたいですね。

アロハ:
今やハワイのビジネス界、報道メディア界のセレブ的存在になっていらっしゃいますが、もともとはワシントンDCでキャリアを積まれていたダイカスさんにとって、ハワイ移住にはどんな意味があったのですか?

ダイカス:
私の亡き妻がハワイ出身だったので、ワシントンDCに住んでいるときからバカンスで何度か遊びに来ていました。ハワイ移住は妻の望みでもあったので、「いつかは」と思っていたのです。ワシントンDCでは地元の3つのラジオ局でパーソナリティをしていて、ラジオでの仕事歴は37年にもなりますが、テレビの世界に進出したのはハワイに来てからです。私自身、自分はテレビ向きのルックスでもタイプでもないと思っていましたから(笑)、人生はわからないものですよね。ハワイでの仕事はまさにゼロからのスタートでしたが、パシフィック・ビジネス・ニュース社に入社し、ラジオのコメントを頼まれるようになって、あっという間に、今のように仕事の領域が広がっていきました。

アロハ:
ハワイに移住したのは亡くなった奥様のご希望だったでのすね。

ダイカス:
最初にハワイに来たのは1978年で、妻と一緒にバカンスを楽しみましたが、最初からハワイのライフスタイルに惚れ込みました。とくに人のやさしさと穏やかさに驚きました。2001年に移住したのですが、その後に妻が癌に冒されていたことがわかったのです。結局彼女は最後の約3年間をハワイで過ごすことができて、本当に幸せだったと思います。彼女が長年帰りたいと言っていた場所に戻ってこられたこと、その場所で一緒に暮せたこと、そして何よりも彼女がハワイで幸せな生涯を閉じられたことに感謝しています。私も彼女のお陰で今、このすばらしい場所で生活を続けていられるのです。

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アロハ:
ハワイでの生活にはすぐになじめましたか?

ダイカス:
ええ、かなりスムーズに順応できましたね。まずは、ハワイ伝統のオハナ(ハワイ語で家族という意味)の精神が今もそのままに生きていることを実感しました。旅行者時代には触れることのなかったハワイの伝統や生活習慣も多かったのですが、知らないことは知らないと正直に言えば、誰もが親切に教えてくれるのがハワイのすばらしいところです。これはジャーナリズムにも通じるところがあります。知りたいと思っている人に理解できるレベルで説明してあげることで、人間は知識の世界も生活空間も広がっていくのです。

アロハ:
2007年の秋からはKGMBの朝のテレビニュース・チームの一員として、活躍の場を変えられたそうですが、これまでの過密スケジュールはそのまま続きそうですね。趣味やハワイを楽しむ時間はあるのでしょうか?

ダイカス:
今までは平日は朝3時に仕事が始まり、新聞記事を書き、ラジオのニュース、テレビのニュースを発信。午後は昼寝をして、その後は自分のための時間にあてていました。ジャズやクラシック音楽が好きなので、ホノルルで開催される音楽イベントは楽しみにしています。ジャズ・フェスティバルやホノルル・シンフォニーのコンサートにも行きます。もともとじっとしているのが苦手なので、アラワイ運河沿いを散歩するだけでも満足できるんですよ。さっきまで仕事をしていた場所のすぐ隣りに自然もある、リゾートもある、そして温かな人たちもそこにいる。それがハワイのすばらしさでしょうね。


インタビューを終えて
テレビで観るちょっとシニカルなイメージとは全く違う、ソフトな面を見せてくれた素顔のハワード・ダイカスさん。ビジネス経済の話とは離れたプライベートな質問にも快く答えてくださいました。亡くなった奥様との思い出を大切に話される態度に、好感度はますますアップ。新聞社を辞め、テレビ・ニュース・チームの一員となったダイカスさんこれからの活躍が楽しみです。

インタビュー「ピーター・アポ」

2007年8月 1日 16:25 | 2007年春号 インタビュー 


本当のハワイを語り継ぐアロハの伝道師
ピーター・アポ -Peter Apo- インタビュー
 ハワイがハワイらしさを失わないため、そして世界中から訪れる観光客が、真のハワイ体験を満喫できるように活動するネイティブ・ハワイアン・ホスピタリティ協会(NaHHA)。ディレクターを務めるピーター・アポ氏は、アロハ・スピリッツの語り部として、祖先から受け継いだ独自の価値観を継承し続けている。

ピーター・アポ/Peter Apo

マウイ島ラハイナ出身。ネイティブ・ハワイアン・ホスピタリティ協会(NaHHA)文化・教育ディレクター。過去27年間、ハワイ州やホノルル市の政府機関などにて活躍。ハワイ大学でハワイアン・バリューを教える傍ら、数々のハワイの文化、芸術、観光業関連団体の役員を務めている。レコード会社「MamoRecord」を運営すると共に、作詞・作曲も行うミュージシャンとして活躍している。
www.peterapo.com

ハワイ ハワイ
アロハスト リート(以下アロハ):
NaHHA(ナハ)が設立された背景について教えていただけますか?
ハワイ
ピーター・ アポ(以下ピーター):
ハワイの観光業にとって、ハワイアンの価値観や文化、伝統は、なくてはならないバックボーンなのですが、経済活動の発展にともなって、人々は時にとても大切なものを見失ってしまいがちです。そのことを憂えたネイティブ・ハワイアンのグループが、アロハの精神やハワイ古来の伝統・文化を正しく理解し、プロモーションやサービスに反映させていけるよう、観光業に属する企業や団体にセミナーやトレーニング、コンサルティングを行う目的で1997年に設立したのがNaHHAというわけです。
ハワイ ハワイ
アロハ: 創始者メンバーのおひとりということですが、どのような経緯から参画されることになったのでしょうか?
ハワイ
ピーター: 私にはハワイアンの血が流れているのですが、私が育った時代は、実はハワイアンであることがカッコイイことではなかったのです。アメリカナイズされた本土風のライフスタイルが良しとされ、公立学校でハワイ語を話すことが禁じられていたこともあって、せっかくハワイアンの家に育ったのに、言葉が話せないまま育ちました。
ところがハワイの観光業で働くようになってから、いかにハワイアンとしての私のルーツが大切なものか、あらゆる場面で実感するようになりました。自らのアイデンティティについて、深く探求すると共に、盛り上がり始めたさまざまなネイティブ・ハワイアンの活動に加わるようになりました。州や市の機関で働くこと27年。リタイア後の第二の人生は、アロハ・スピリッツの伝道師として過ごすことになったというわけです。
ハワイ
アロハ: 伝統的なハワイアンの「価値感」の中で、観光に関わるものというと?
ハワイ
ピーター: たとえば「ホオキパ(ho`okipa)」という価値観があります。ホスピタリティという意味のハワイ語ですが、元来、ハワイアンはすばらしいホストで、見知らぬ人を手厚くもてなす精神を持ちあわせていたのです。私たちは、この価値観をハワイに住む人々に再認識してもらうために、セミナーやワークショップを行っています。ホテルで言えば、ハウスキーパーからフロントデスクに至るすべての人がホオキパを理解し、実践することが大切なのです。
ハワイ ハワイ
アロハ: ワイキキの再開発はあまりにも規模が大きいために、ハワイらしさが失われてしまうのではないかと心配する日本のハワイファンもいるのですが。
ハワイ
ピーター: それは私たちの最大の関心事でもありますね。新規開発や再開発プロジェクトにおいて、伝統的なハワイらしさを失わないように、プランニングの段階からコンサルティングをしていくのも私たちの活動内容のひとつなのです。観光客やローカル住民が心地よく楽しめる最新施設を作ることと、ハワイらしさを後世に受け継いでいくことは、きっと両立できると信じています。
ハワイ
アロハ: 「ゲスト、ホスト、場所」の3つの要素をバランス良く考えることが、ハワイの観光産業にとって重要だとおっしゃっていますね。
ハワイ
ピーター: 観光客の皆さんの満足は、あくまでもハワイがハワイらしい環境を保ててこそ。行き過ぎた開発で自然が失われたり、インフラの整わない施設をそのまま放っておいたり、ホストであるローカル住民の生活条件が悪くなれば、結果、それは観光客の満足度に反映されていきますよね。3者間にバランスの良い関係が生まれることが、持続する観光産業の活動においては何よりも重要なのです。
ハワイ
アロハ: 本当にその通りですね。ところでピーターさんはもともとミュージシャンだったんですよね?
ハワイ
ピーター: ええ。1960年代のフォークソング全盛の頃で、ちょうど本土のオレゴン大学を出た後に「トラベラーズ・スリー」というバンドを組んで、8年間、全米を回って音楽活動をしました。アルバムも4枚、発売したんですよ。今年、新しいソロCDもリリースしたので、ぜひ聴いてみてください。
ハワイ

 エンターテインメントから観光業、そして政治、文化、教育に至るまで、ありとあらゆる分野で活躍してきたピーター・アポ氏は、ハワイでは知る人ぞ知る有名人。穏やかなトーンで語られる言葉の深みに感動し、もっとたくさんハワイの価値観についてお話をうかがいたくなりました。

※アロハストリート2007年春号に掲載した記事です。 定期購読のご案内

公開日 : 2007年 8月 1日

インタビュー「クラレンス・リー」

2007年4月18日 16:41 | 2006年冬号 インタビュー 

「イメージ」が語るハワイの文化と生活
クラレンス・リー -Clarence Lee- インタビュー
 ファーストフードのパッケージから、大企業のロゴ、高級リゾートの優雅なロビーまで、 リー氏の作品はハワイの至るところにある。中国系アメリカ人としてのアイデンティティを表現した 十二支のアートは、アメリカ郵便局の特別記念切手にもなり、12年間かけて売り出されている。 そして2006年、常に走り続けた最前線から、リー氏は引退を表明した。

クラレンス・リー/Clarence Lee

オアフ島ホノルル出身、エール大学卒。ハワイのグラフィック・デザイナーの草分けであるだけでなく、州内で見かけるロゴやトレードマークの多くがリー氏の作品でもあるほど、ハワイの人々に「イメージ」で与えた影響も大きい。ハワイのビジュアル・アートの発展に貢献したアーティストに与えられる「Koa Award」受賞。尊敬を一身に集める、ハワイの「Living Treasure」でもある。
URL:www.clarencelee.com

アロハスト リート(以下アロハ):
作品集を見せていただいて、改めて「クラレンス・リーさんの作品の中で生活している!」と思ったほど(笑)、ハワイでの生活の中にはリーさんの作品である企業ロゴやイメージ・デザインがあるのに驚かされました。
ハワイ
クラレンス ・リー(以下リー):
そうですか(笑)? デビュー当初から常に「自分は本当にツイてる! 幸せだ!」と思っていましたが、私がハワイでデザインを始めた頃は、まさにグラフィック・デザイン業界が起業しはじめた時期だったというのも幸いしました。最初からすばらしいクライアントに恵まれましたし、若いときはとくに「自分にできないことはない」と、勇気があったというか、自信にあふれていました。
ハワイ ハワイ
アロハ: グラフィック・デザインの勉強は米本土でされたそうですが。
ハワイ ハワイ

リー:
当時は、まだハワイにはグラフィック・デザインという学科はなかったので、エール大学のコマーシャル・アート課に入りました。これが実は私の人生に最高の道を作ってくれたわけですが、卒業後数年間は東海岸に留まって仕事をしました。
1965年にホノルルに戻り、電話1台だけで仕事を始めましたが、この頃のハワイでは、東海岸でのトレーニングとキャリアがとても強みになりました。
最初の企業イメージのデザインの仕事はAmfac社で、数社とのプレゼンの結果、獲得したときはうれしかったですね。また、現在のホノルル・マガジンの前身である「パラダイス・パシフィック・マガジン」のデザインも手がけていましたが、これはほとんど修行みたいなギャラでやっていました(笑)。でも、本当にやり甲斐があったし、多くを学びました。今でも信じていることですが「お金の心配をするな。自分の信じることを心から楽しんでやっていれば、お金は必ずついてくる」ということも、このとき実体験したと思います。
ハワイ
アロハ: 何だか「絶対に信じたい」お言葉です(笑)。リーさんのデザインされたロゴを見ると、その企業の特徴やイメージが鮮やかに湧いてきますが、実際にデザインされるときは、どういうプロセスがあるのですか?
ハワイ

▲クラレンス・リー・デザインの若き担い手、クニ山本氏がデザインした、ウインキュービック/アロハストリートの新しいロゴ。Wが輪になり、手をつないでいるかのように見えるデザインは、柔らかなイメージだけでなく、絆の強さも表している。
リー: まず、クライアントやその商品に対する先入観を捨てます。これは本当に基礎ですね。先入観を捨てて、クライアントの話を、とにかくじっくり聞きます。歴史、エピソード、目標、すべてを聞き、彼らのエネルギーも感じます。聞いて、理解して、次は自分の中で消化して、そこから、そのクライアントを一言…というより一目で表現できるデザインをクリエイトします。今までデザインしたすべての作品は、自分の子どものような存在です。それぞれ、生まれるまでの経過も違えば、生まれたときの様子も違う。社会に出て行ってからの成長を見るのも楽しみで、本当に子どもと変わらないですね。
ハワイ ハワイ
アロハ: 最前線を引退されてしまうということですが。
ハワイ ハワイ
リー: 最前線…と呼ばれるところに40年いましたからね。次のジェネレーションを育てるコンサルタントとしての存在になる時期かと思いました。これからはクラレンス・リーというデザイン事務所にも、新しいデザイナーたちの新時代が始まります。楽しみです!
ハワイ ハワイ

アロハ:
引退後はどんな生活を予定されているのですか?
ハワイ
リー: 絵画を本格的にやりたかったので、勉強しようと思っていますよ。
ハワイ
アロハ: 勉強の再スタートですか? すごい!
ハワイ
リー: 今までこの仕事が本当に好きで、仕事が命の人間でしたから、自分からアートがなくなったら、どうしていいのかわからないのかもしれないですね(笑)。でもそういうところも、クラレンス・リーという人間そのものなので、自分で認めたいのです。だからこそ、自分が誰なのかを忘れないために、自分の好きなこと、すなわち「画くこと」を続けていきたいと思います。

 ハワイのどこかで目にしたことのある、これらのロゴやデザインは、すべてクラレンス・リー氏の作品。

(1)ハワイ州最大のお祭り、
アロハ・フェスティバル

(2)セントラル・パシフィック・
バンク

(3)ハワイ・コンベンション・センター 

(4)2006年夏まで使われていた
ワード・センターズのロゴ

(5)十二支をモチーフにした
記念切手

 リーさんのデザインがハワイ中にあふれているのは知ってはいても、実際にオフィスにうかがった際、「あれも?これも? それも!」と、驚くほどたくさんの「リー作品」の中で暮らしていたことを実感しました。そして穏やかなリーさんのお話の中には、私たちが毎日覚えていたい、たくさんの教訓があり、何度も大きくうなずいていました。そのヒントを、この記事の中で探してみてくださいね!

※アロハストリート2006年冬号に掲載した記事です。 定期購読のご案内

公開日 : 2007年 4月 18日

「ナイノア・トンプソン」インタビュー

2007年4月 4日 16:51 | 2006年冬号 インタビュー 

古代の英知とマナ(魂)の学びは途絶えることなく繰り返される
ナイノア・トンプソン -Nainoa Thompson- インタビュー
 遠い昔、まだ海図や計器も何もなかった頃、ポリネシアからハワイに移り住んだ先祖たちが、太陽、星、風、鳥の様子などから進路を定め、遠く離れた島へと旅したことを証明するために、当時と同じスタイルで建造された古代式カヌー「ホクレア号」。自然だけを頼りに航海を進めていくというこの「ホクレア号」が、2007年1月、ついに日本へと旅立ちました。もちろん今回の航海も、最新テクノロジーは一切使わず、ホクレア号の初航海時から参加したナイノア・トンプソン氏が受け継いだ、スター・ナビゲーションと呼ばれる高度な古代ポリネシアの伝統的な航海術だけを頼りに、旅を続けています。
 アロハストリートでは、航海出発直前のナイノア・トンプソン氏にインタビューを行い、この航海やホクレア号に対する特別な思いなどをお聞きしました。

ナイノア・トンプソン/Nainoa Thompson

1953年、オアフ島生まれ。ホクレア号プロジェクトには1974年の建造時から参加。初航海での古代航海術再現のためミクロネシアから招かれたマウ・ピアイルグ氏に師事。古代ポリネシアより伝わる航海術を引き継ぐ。ポリネシア航海協会会長、ビショップ財団理事を務める傍ら、カヌーやホクレア号を通じて、自然環境保護、文化継承など、幅広い活動を展開している。

感謝と伝承の輪を完成させる旅へ
ハワイ ハワイ
アロハスト リート(以下アロハ):
ホクレア号はすでに30年以上の航海の歴史を作ってきましたが、いよいよ次はミクロネシア、そして日本、という新しい航路に行かれるのですね。
ハワイ
ナイノア・ トンプソン(以下ナイノア):
この航海はとても大きな意味のあるもので、「ひとつのサークル(輪)」を完成させるという使命があるのです。そのサークルをご説明するにはまず、ホクレア号最初の航海を成功させた人物であり、ハワイの文化復興の大きな助けとなったマウ・ピアイルグ氏のお話から始めましょう。今回のミクロネシアへの航海は、マウへの感謝の旅であり、マウがハワイの伝統文化を救ってくれたように、今度は私たちがミクロネシアの伝統文化を守るために貢献させてもらうのです。ホクレア号が出来上がった当時、カヌーはできたのに、ハワイを含むポリネシア圏には古代航海術「スター・ナビゲーション」を継承している航海士がまったく残っていなかったのです。幸いミクロネシアに数人残っていたので助けを求め、協力してくれたのがマウでした。
ハワイ ハワイ
その航海術は、選ばれた人だけに口頭で継承されるハワイのフナ(秘術)のようなものだったにも関わらず、そのすべてを誠心誠意20年もの歳月をかけて伝授してくれました。彼の存在と協力がなかったら、ホクレア号が証明した古代ポリネシア人の移住の軌跡も、ハワイの文化復興もなかったでしょう。しかし、今度はそのミクロネシアで、マウの航海術や遠洋航海用カヌー建造の技術が継承の危機を迎えています。マウから学んだ航海術と、カヌー製造技術を再びミクロネシアに返す必要があるのです。マウは今年74歳になり、健康状態を考えても、今しかない、と感じているのです。
ハワイ
アロハ: ピアイルグ氏が教えてくれたものを再びミクロネシアに返すことで、サークルを完了させるのですね。
ハワイ
ナイノア: そうです。ハワイに伝承者がいなくなっていた文化を、ミクロネシアからマウがやってきて、惜しげもなくすべてを与えて復活させてくれました。そして、今度はマウに教えられたすべてを、私たちがミクロネシアに返す番なのです。今度の航海では、ホクレア号とともに、マウのために建造した「マイス」というカヌーが海を渡ります。その航海には、ミクロネシアの若者を参加させ、ナビゲーターとして育てます。これからはホクレアとマイスが、スター・ナビゲーションの学校となるのです。ハワイを助けたマウの島にお返しすることで、学びと感謝のサークル(輪)が完了するのです。これは私にとっても、ホクレア号から多くを学んだすべての人にとっても重要なことなのです。

日本文化という大きな影響
ハワイ
アロハ: ミクロネシアからは日本へ向かうそうですが、日本行きの意味を教えてください。
ハワイ
ナイノア: 日本とハワイが深い関わりを持っているのは、皆さんご存知だと思います。1881年にカラカウア王が日本を訪れ、そこから移民の歴史が始まりました。日系人や日本文化がハワイに与えた影響、貢献度は語り尽くせないほどです。そして私の個人的な考え方ですが、ハワイアンと日系人は、ともに苦しい時代を乗り越えてきた強さとやさしさで、共通点があると思うのです。
ハワイ
ハワイ ハワイ
これも個人的なことになってしまいますが、日本は私にとっても大切な場所なのです。私は今も住んでいるこの場所で生まれて育ちました。ここは私の祖父の時代にハワイ王朝から譲り受けた土地ですが、昔は酪農をやっていて、敷地内には家族の住居のほかに、日本人移民のヨシオ・カワノさんとミヨコさんの夫婦が住む家もありました。私たち兄弟姉妹は忙しい両親に代わってカワノ夫婦に育てられたと言ってもいいほどで、ヨシオの家にいくとそこにはまさに日本があったのです。また、海は私の人生そのものですが、ハワイの海のすべてを教えてくれたのはヨシオだったんです。夜通し働いて帰ってきてもヨシオは毎朝私を海に連れて行ってくれ、釣りをしながら、海を愛すること、そして「海を感じる」ということを教えてくれたのです。これはナビゲーターになったときに本当に役立ちました。「今、自分は海のどこにいて、海から何を感じるか」、これは子どもの頃にヨシオに教えられ、体で学んだことだったのです。
ハワイ ハワイ
アロハ: ヨシオさんの祖国への旅も、感謝を返すサークルの一部なのですね。
ハワイ
ナイノア: そう思います。ホクレア号で日本へ行く計画自体は十数年前から父のアイデアとしてあったのですが、ハワイの文化に大きな影響を与えた日本に、今度はハワイ文化の基礎である「アロハスピリット(友愛の精神)」を持って感謝を返したいと願っています。今、ハワイの日系人は、すでに5世の時代に入っていますが、日本の血を引くハワイの人の多くは「自分のルーツ」への深い想いと尊敬があります。その気持ちを代表して、日本から移民を乗せた船がハワイに向けて出港した港をたどっていこうと計画しています。

できれば、人生最初の師だったヨシオの故郷に行きたいのですが、残念ながら彼がどこから移民してきたのかの資料がありません。でも今回寄港する港のどこかから、ヨシオはハワイに向かったのでしょうね。沖縄はもちろん、福岡などハワイと姉妹都市や友好都市になっている場所もありますし、えひめ丸ゆかりの愛媛にもうかがうつもりです。えひめ丸事故の後、事故現場に遺族をお連れしたのもホクレア号だったのです。
ハワイ
アロハ: ホクレア号の日本到着に向けてメッセージをいただけますか?
ハワイ
ナイノア: ホクレア号は今、平和と希望を象徴するシンボルとして地球を旅しています。暴力に溢れたニュースの中で暮らす現代の若者たちに、宇宙と魂に導かれて進むホクレア号に出逢って欲しいと願います。穏やかに黙々と大海を進んでいくホクレア号の姿の中に、純粋な希望、夢、愛を感じとってください。日本でお会いできるのを心から楽しみにしています。

ホクレア号公式日本語ブログはこちら

※アロハストリート2006年冬号に掲載した記事です。 定期購読のご案内

公開日 : 2007年 4月 4日

スペシャル・インタビュー「リンダ・リングル州知事」

2007年1月24日 17:06 | 2006年秋号 インタビュー 

ハワイの文化と魅力を世界にアピールする
Governor Linda Lingle/
リンダ・リングル ハワイ州知事 インタビュー
 ハワイ初の女性州知事として、就任以降は全米でも類を見ないユニークな文化と経済、自然環境を持つハワイ州を、新しい視点と古きを重んじる心でリード。州知事としてひとりの人間として、自らが率先してアロハスピリットを世界に向けてアピールする、力強くもやさしさに溢れたリンダ・リングル氏の単独インタビューをお届けします。

Governor Linda Lingle
(リンダ・リングル ハワイ州知事)


ハワイ州知事。ミズーリ州セントルイス出身、南カ リフォルニア大学卒。
1975年よりハワイ在住。1980年代にマウイ郡議会議員となり、その後1990年にマウイ郡長に就任。マウイ郡長を2期務めた後、2002年12月にハワイ州知事に就任。ハワイ州初の女性知事誕生のニュースは、全米でも大きく取り上げられた。

アロハ: ハワイはアメリカの中で政治経済的にも文化的にも非常にユニークな位置づけにある州ですが、州知事として、観光についてのお考えをお聞かせください。
ハワイ
州知事: ハワイは単なるビーチ・リゾートの観光地として以上の役割と魅力を持っている場所です。アメリカ合衆国でありながらも、その歴史と文化のユニークさにおいては他州はもちろん、世界に類を見ないところです。だからこそ、ひとことで「ハワイ観光」と言っても 奥も深く、旅行者の皆様に提供できる引き出しが無数にあるのです。ハワイの魅力は、歴史、文化、そしてこの島に長年培われてきたアロハスピリットと、それをライフスタイルの核として生きているハワイの人々であり、そのすべてのすばらしさを世界の人々と分かち合うことが、ハワイの観光のあるべき姿だと思っています。
ハワイ
ハワイ ハワイ
アロハ: 近年、私たち日本人にとって、ハワイは単なる南の島のリゾートではなく、伝統文化の宝庫という意味で、ますます惹かれる場所になっています。
ハワイ
州知事: 日本の方々は伝統文化や歴史をとても重んじてくださいますね。ハワイ島で行われているフラの祭典「メリー・モナーク・フェスティバル」を観戦にいらっしゃる日本人旅行者も驚くほど増えています。そして心からフラという伝統文化の真髄に触れようとしてくださっている姿には感動いたします。アメリカ本土では、数年前から「グラミー賞」の新部門に「ハワイアン・ミュージック部門」が新設されたことによって、ハワイの音楽文化が注目されるようになってきました。まさに本物のハワイ文化を世界にご紹介することのできる時期が来た、というところです。
ハワイ
アロハ: ハワイには旅行者に「初めて来たのに懐かしい」と思わせる不思議な魅力もありますね。
ハワイ
州知事: ハワイ独特の多人種文化がそうさせているのでしょう。この島の文化や生活習慣は、世界中からの移民たちの祖先が創り上げてきたものです。日本移民史、韓国移民史はすでに移民100年祭の大きな節目を迎えていますし、2006年にはフィリピン移民史が100年祭を迎えました。アメリカではあっても、日本をはじめ、さまざまな国の文化、風習が残っていますから、世界からの旅行者が「懐かしい」と感じる何かを生むのでしょうね。今のハワイの基礎を作り上げた移民文化はハワイ州に大きな軌跡を残しているのです。
ハワイ
アロハ: 世界中の人々が集まるワイキキも、今まさに大きな変革の時期を迎えていますね。
ハワイ
州知事: ワイキキ史上初の大規模なリノベーション(改築工事)が行われています。大型ホテルが軒並み工事をしていることで、ホテル不足のご心配をおかけしていますが、工事終了後には「新生ワイキキ」の誕生とともに、ホテル不足も解決されるでしょう。
ハワイ
アロハ: ホノルル国際空港の大改装プロジェクトも発表されましたね。
ハワイ
州知事: 総工費約275億円をかけて、ホノルル国際空港をはじめ、各島の主要飛行場施設のグレードアップを進めていきます。旅の最初と最後はエアポートが舞台となるわけですから、より使いやすく、居心地の良い場所にしていくことは大切なのです。
ハワイ
ハワイ
▲ハワイ州政府と、観光業界をつなぐツーリズム・リエゾンの、マーシャ・ウィナート氏(左)は元マウイ観光局長。州知事とはマウイ島在住時代から深い信頼関係がある。ハワイの文化と自然を愛する2人の女性が州の観光と政治を支えあいチーム・ワークを築き上げている。
ハワイ ハワイ
アロハ: 近年のホノルル空港はどんどん使いやすくなっていると実感しています。国際線で到着して、入国審査の窓口の行列に延々と並ぶのが、楽園ハワイに入るまでの難関だった時代もあります(笑)。でも、今では本当にスムーズに進むので旅行者の皆さんにとっても、とても楽になったと思います。
ハワイ
州知事: ありがとうございます! それはうれしいコメントです。訪問者という立場からの生の声は貴重です。「こう変わってよかった」「この点が改善された」というご意見やご報告は「こうして欲しい」というリクエストにきちんとお応えできたということですから、心からホッとしますね。
ハワイ
アロハ: 実はハワイ好きの 日本人旅行者の間では、ホノルル空港到着時に感じる独特の甘い香りが話題になることもあり、「何か特別な芳香剤を使っているからだろうか」という人もいるくらいなんですよ。
ハワイ
州知事: それは想像もできなかった話題ですね(笑)。
ハワイ
アロハ: 実際、芳香剤なのですか(笑)?
ハワイ
州知事: いえ、違うと思いますよ(笑)。エアポート周辺の草木の香り、レイやレイ・スタンドの香り、それに時にはシャワー(にわか雨)などの湿気や香りが混ざり合って、あの独特の香りを作り出しているのでしょうね。でも、そんな小さなことにもハワイらしさを感じて下さる、日本人旅行者の皆様の繊細な心には本当に感謝したいですね。エアポートに着いた最初の一歩から、私たちのお出迎えのセレモニーが始まっているということを再認識させられます。ハワイがいつまでも色鮮やかに、香りも豊かに、皆様をお迎えできる存在であり続けるよう努力していきます!
ハワイ


 インタビューの記念に、アロハストリートが始めたネイチャー・プロジェクトの基金商品である「アロハカレンダー」をプレゼントさせていただきました。リングル州知事は、ネイチャー・プロジェクトのコンセプトを聞いて「日本向けの情報メディアがこうした活動を始めていることを知って感激です。是非、ハワイ州としてもその一環に加わりたい」と言ってくださり、私たちも思わず感激!自分の言葉でしっかりと話しながらも相手への心遣いに満ち溢れたやさしい態度に、「アロハスピリットを率先して実行するリーダー」を感じました。

※アロハストリート2006年秋号に掲載した記事です。 定期購読のご案内

公開日 : 2007年1月 24日

「ブラザーズ・カジメロ」インタビュー

2006年10月18日 17:16 | 2006年夏号 インタビュー 

ふたりのハーモニーが生み出すハワイアン・ミュージックの最高峰
「ブラザーズ・カジメロ」インタビュー
 兄のロバート(右)はインタビューの時間通りに現れ、レコード会社のオフィスでそわそわ。
15分後に現れた弟のローランドは人懐っこい子犬のようで、 「ごめん、レインボー・ドライブインで朝飯とシェイブ・アイス食べて来ちゃったよ!」と高笑い。
 このふたりだからこそ、あのブラザーズ・カジメロのやさしいサウンドが生まれるのである。

The Brothers Cazimero
ブラザーズ・カジメロ


コンテンポラリー・ハワイアン・ミュージックを確立し、その中心となって約30年以上活躍して来たロバート(兄、右)とローランド(弟、左)・カジメロは、今やハワイの顔的存在。現在までに36作品を発表、昨年発表されたアルバム「Some Call It Aloha...Don'tTell」は2005年度グラミー賞にもノミネートされた。恒例のレイデイ(5月1日)のコンサートは今年で29回目。年末にはクリスマス・アルバムをリリース予定。なお、ロバートはクムフラとしてもお馴染みで、昨年開かれたフラ最高峰のフェスティバル「メリー・モナーク」では、自らが率いる「ハラウ・ナー・カマレイ」が総合優勝している。
「Some Call It Aloha...Don't Tell」
Mountain Apple Company

アロハ: 約30年以上に渡って、コンテンポラリー・ハワイアンのリーダーとして活躍されてきたおふたりですが、すでに30枚以上の作品をリリースし、新作も昨年発表されるなど、常にトップの座をキープされていますよね。
ローランド: 僕は3才の頃、母親の影響で音楽にどっぷりはまり、ロバートもその数年後に家族の影響で音楽やフラにはまっていったんだ。それ以来、音楽以外のことに浮気をしたことはないね。常にトップの座をキープできたわけでもないんだけどさ。でも結局はいい曲を書いた人が勝ちだから、こればっかりはタイミングさ(笑)。
 マカハ・サンズとか、いいグループがどんどんでてきて、色んなミュージシャンたちが、ハワイアン・ミュージックを見守ってきたけれど、最終的にはなによりも、楽しんでやることこそが、音楽の醍醐味だと思うんだよ。それに関しては僕たちは、確実にやってきてると思うよ。ハハハ!
ハワイ ハワイ
アロハ: 一言でハワイアン・ミュージックといってもこの30年で随分変わったのではないでしょうか?
ハワイ
ロバート: それは確かにそうですね。今は世界中の様々な音楽が自由にハワイに入ってきて、しかもコンピューターなどでもアクセスしやすくなったので、色んな意味でハワイの音楽にほかの要素が混じるようになってきてます。いいとも悪いとも言えませんが、とにかく変わってしまったことは確かです。
ハワイ
ローランド: 僕も当時からロックンロール好きだったから、ヘビメタとかジミヘンにはまっていたけど、兄と一緒に音楽を作り、演奏するときの快感は、ロックンロールにも見いだせない特別なものなんだ。兄はとにかく才能があって、僕は常にインスパイアされてきた。彼なくしてハワイアン・ミュージックに革命はおこらなかったとも思うよ。長年一緒にこうしてやってこれたことはまさにマジック。お互いソロでも充分やれていたと思うんだ。でもふたりだとパワーが倍増して、信じられないほどの感動が生まれる。こうして一緒にやれることをカフナに感謝しているよ。
ハワイ
ロバート: アルバムの曲選びなどで、もめることもありますが、でもそれは、いいものを作り出す為のプロセスですから…。
ハワイ
アロハ: ロバートはクムフラとしても30年以上活躍されていますが、フラで最も大切なことはなんでしょう?
ハワイ
ロバート: すべてに対してリスペクト(尊敬)の気持ちをもつことですね。フラをあまり知らない人でしたら、自らフラを体験してリスペクトすることをおすすめします。
 私は、第1次フラブームの時に、日本を訪れましたが、その頃の日本の方たちは、みんなリスペクトの気持ちを持っていたように思いました。これから先、日本ではフラがさらに商業化されていくことがあるかもしれません。とくに日本では、フラはお金になってしまいますから…。でも、文化を海外に伝えるときは、必ず誤解が生じるのは仕方がないですよね。芸者の映画「SAYURI」でも、色んな誤解があったように。
ハワイ
アロハ:  例えば、フラダンサーは耳にプルメリアなど花を飾って踊るものと思っている人もいるようなんですが、ハワイのフラダンサーは、花を髪の毛に飾ることは少ないですしね。フラが広まっていくのは、いいことだと思いますが、教える側としては時々、ハワイの文化がきちんと伝承されるか心配なのも事実です。
ハワイ
アロハ: アルバム「Some Call It Aloha...Don't Tell」を昨年6年ぶりにリリースしたばかりなので、新作はまだ先の話になりそうでしょうか?
ハワイ
ロバート: 毎年恒例のクリスマス・アルバムは今年もリリース予定ですが、アルバムは2、3年は作る予定はありませんね。
ハワイ
ローランド: 前回のアルバムは自分たちも大満足だったんだ。だから、思う存分ライブとかで演奏をしてからでないと、次を作るのがもったいなくてね(笑)。
ハワイ
アロハ: 最後に読者へのメッセージをいただけますか?
ハワイ
ロバート: 音楽を聴く心をもってくれてありがとう。僕らの音楽を選んで聴いてくれてありがとう。
ハワイ
ローランド: いくつになってもこの雑誌を読み続けて(笑)! 10年後にこの雑誌を開いても、どうせ僕たちは変わらずブラザーズ・カジメロとしてインタビューに答えてるだろうからさ!ハハハ!あとはね「Be well」だね。自分に対しても他人に対してもBe well。そしたら長生きできるかもしれないじゃないか。

 ここまでキャラの違う兄弟も珍しいので、しゃべり口調もわざと変えてみました(笑)。弟のローランドはいつも陽気で冗談ばかりのやさしいロコボーイ、そして兄のローランドは、日頃から環境汚染や破壊に心を痛める繊細な天才肌。ハワイアン・ミュージックのレジェンド的存在にも関わらず、カジメロ一家のバーベキューにふらっとおじゃましたような気分にさせてくれたインタビューでした。「ブラザーズ・カジメロ」は、アロハスピリットの代名詞ですね。

※アロハストリート2006年夏号に掲載した記事です。

公開日 : 2006年 10月 18日