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第54回 クアキニ病院

2008年10月 2日 10:00 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第54回 現存する米唯一の日系人設立病院「クアキニ病院」

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クアキニ通りにある「クアキニ・メディカル・センター」(通称「クアキニ病院」)の歴史は、1892年の「日本慈善協会」の発足にさかのぼる。

1899年、ホノルルのチャイナタウンにペストが蔓延したため、感染地域の焼き払いが始まったが、1900年1月、その火がチャイナタウン一帯に飛び火し、大火事となった。「日本慈善協会」は、着の身着のまま逃げ出し、着るものや食べ物がない数千人の日系移民を救済するために仮避難所を造った。

「日本慈善協会」は、病院建設のための募金を募り、カパラマ地区の半エーカーの敷地を購入した。1900年7月、木造2階建38床の「日本慈善病院」を設立したが、開院して2年間、常に満床状態だったため、1902年8月には、近隣の木造2階建40床の場所に移った。

しかし、ここも手狭になり、1917年に、大正天皇皇后両陛下の恩賜や地域住民の寄付により、現在地に、17棟70床の「日本病院」を建設した。

1931年には、「日本病院看護学校」を設立し、1学級約20人、3年間の研修課程が日本語で行われた。また、高齢で身寄りのない砂糖耕地労働者の介護をするために寄付を募り、1932年に、現在の「クアキニホーム」の前身、「ハワイ日本人養老院」を設立した。

1934年、昭和天皇皇后両陛下の一万円の恩賜により、1939年に、X線、手術、分娩設備完備の百床の病院に拡張し、増築部分は、「恩賜記念館」と名付けられた。

第二次世界大戦中は、「オアフ第147総合病院」と呼ばれたが、1942年に「クアキニホスピタル&ホーム」に改名。1951年には、エワ棟とワイキキ棟が増築され140床になったが、「日本病院看護学校」は、1955年の卒業生を最後に閉鎖された。

1975年には、「クアキニ・メディカル・センター」と改名され、1979年には、8階建の駐車場と医院ビル「クアキニ・メディカル・プラザ」が建設された。

1980年3月には、緊急医療と老人医療施設の「ハレ・プラマ・マウ」が建設され、屋上にはヘリポートが造られた。

「クアキニ病院」は、現存する米唯一の日系移民が設立した病院で、現在250床。最先端の技術を誇る医療施設である。



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第53回 ドール・プランテーション

2008年9月25日 10:00 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第53回 フルーツスタンドとして始まった「ドール・プランテーション」

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ワヒアワには、パイナップル畑が一面広がり、カメハメハ・ハイウェイ沿いにある「ドール・プランテーション」の一帯は、農場試験地域として、昔からパイナップルの品種改良や試験栽培が行われている。

「ドール・プランテーション」は、1950年にフルーツ・スタンドとして始まった。1989年にそのスタンドを大改造し、パイナップルについて学んだり、味見などが出来る観光地として「ドール・プランテーション」がオープンした。

1997年には、125,000ドルを投じ、更なる改装が行われ、1998年4月には、敷地内に2.3エーカー(9,307平方メートル)の巨大な迷路がオープンした。

迷路の長さは、1.7マイル(約2.7キロ)。1998年と2001年には、世界一長い迷路として「ギネスブック」に公式登録された。迷路の垣根は、ハイビスカス、ヘリコニアなど、ハワイを代表する10,000本以上の木々で造られ、迷路の中心は、パイナップルの図柄になっている。

2002年には、パイナップル・エクスプレス・トレインが開通。パイナップル急行と名付けられた小型機関車に乗りながら、パイナップル、マンゴー、パパイヤ、ライチー、コーヒー、カカオなど、ハワイの農作物を間近に見ることが出来る。

2003年には、プランテーション・ガーデンがオープンした。園内にはレイ園、ハイビスカス園、ノースショアの庭園、ブロメリア園、ティの庭園、プランテーションの生活、ハワイの固有種園、畑の灌漑と名付けられた8つの小庭園がある。

プランテーション・センター内の売店は、昨年春の拡張工事で従来の倍以上になり、パイナップルに関する様々な製品が一堂に集められている。ハワイの農業観光を代表する「ドール・プランテーション」は、年間百万人以上の人が訪れる観光名所になっている。

ドール・プランテーション 詳しくはこちら>>



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第52回 カメハメハ大王像

2008年9月18日 10:00 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第52回 米国切手の図柄にもなった「カメハメハ大王像」

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南キング通りのイオラニ宮殿の向い、アリイイオラニ・ハレの前にあるカメハメハ大王像は、デイビッド・カラカウア王が1883年に建立した。

カメハメハ大王は、1756年、ハワイ島コハラ地区のカパアウで生まれ、1795年にカウアイ島とニイハウ島を除くハワイ諸島を統一した。ハワイ史上最も武勇に長けた王として知られ、1819年に没するまで、ハワイ王国民の仰望を集めた。

カラカウア王は、カメハメハ大王の栄誉を讃え、1878年に、ボストン出身でイタリア在住の彫刻家、トーマス・ゴウルドを銅像の作者に指定し、友人でハワイアンの血を引くジョン・ベーカーを銅像のモデルに選んだ。

ゴウルドは、創った原型像をフランスのパリに送り鋳造を依頼し、完成した銅像はパリからハワイに輸送された。しかし、アルゼンチン沖のフォークランド諸島付近で船が沈没し、銅像は海に沈んでしまった。

それを知ったカラカウア王は、銅像にかけられた保険金で、新たな銅像の制作を委託し、1883年に現在の場所に建立した。

銅像は、大王の象徴であるマヒオレというヘルメット、マント、飾り帯を身に付け、左手には槍を持ち、右手はアロハを象徴するジェスチャーをしている。このカメハメハ大王像は、1937年に発行された米国三セント切手の図柄になった。

永久に日の目を見ることが無いと思われた初めの銅像は、実はイギリス船の船長が海底から引き上げていた。カラカウア王は、その銅像を買い取り、痛んだ所を修理してから、カパアウの裁判所の前に1912年に建立した。また、カメハメハ大王像のレプリカは、米国国会議事堂にもあり、合計三体の銅像がある。

カメハメハ五世は、カメハメハ大王の栄誉を讃え、1871年に、6月11日をカメハメハ・デーと制定した。毎年カメハメハ・デーには、大王に因んだパレードが行なわれるほか、体長約3メートルのカメハメハ大王像に6メートル程の長いレイがかけられる。また、5月1日のレイ・デーにも同様の長いレイが銅像にかけられる。

2005年のカメハメハ・デーには、銅像の台座の四方に、カメハメハ大王を讃えるレリーフの飾り板が取り付けられた。



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第51回 ハワイ日本文化センター

2008年9月11日 13:40 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第51回 ハワイ日系人の拠点「ハワイ日本文化センター」

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南ベレタニア通りにあるハワイ日本文化センターは、1994年5月21日に、三笠宮寛仁殿下と信子妃殿下ご臨席のもと、竣工式が行われた。

「ハワイ日本文化センター」の設立は、1985年の日本人官約移民百年祭の記念に、日本文化を伝承するのに相応しい記念館を造ろうという動きが生まれたことに端を発する。

更に、ホノルル日本人商工会議所が、ビショップ財団から現在地の買収を取り付けたことも大きな原動力となり、第100大隊、442連隊、陸軍情報部機関(MIS)などの関係者が、日系人の歴史を伝承する施設を造ろうとしていた動きと相まって文化センター設立の動きが生まれた。

1987年から、ハワイ日系人連合協会、ハワイ日米協会、日本クラブ、442連隊、陸軍情報部機関クラブ、ホノルル日本人青年会議所、沖縄連合協会、ホノルル日系婦人会などが中心となり構想が練られた。

1988年3月から、総額1000万ドルを目標にした募金活動が始まり、理事会が結成された。当初は、既存のホノルル日本人商工会議所と駐車場や大広間を改築するという構想だったが、武道場や歴史資料館、お茶室も加えた記念館を造る計画に移行し、募金目標額も1850万ドルに変更された。

理事会員らは、地元ハワイでの募金活動に留まらず、日本の都府県知事や県人会関係者らにも陳情に行き、日本各地を東奔西走した。多くの人が募金活動に尽力した結果、ハワイだけでなく、日本政府、東京都、広島県、福岡県、山口県、岡山県、福井県、石川県、沖縄県、熊本県などからも募金が集まった。

建設工事は、第一期と第二期に分けられ、第一期工事では、元お茶室があった場所に四階建の事務所ビル(ハリー・アンド・ジーンネッテ・ワインバーグビル)が1991年8月23日に建設された。

竣工式から八年以上経った2002年10月、建設工事費や利子などによる借金、1100万ドルの返済期限を同年の大晦日に控え、建物売却案が持ち上がった。理事会は急遽600万ドルの募金を集め、債権者との合意も得て、建物は抵当に入るのを免れた。

現在、ハワイ日本文化センターは、日系移民の偉業を讃え、その遺産を継承し、日米両国の文化の架け橋となる記念館として、新年や七五三、お茶会など、日本文化に因んだ数々の行事が行われ、多くの人に利用されている。



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
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第50回 モルモン教会

2008年9月 4日 10:04 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第50回 ユタ州以外で最も古いライエの「モルモン教会」

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ライエにあるモルモン教会は、1915年6月1日に設立された。

モルモン教というのは、末日聖徒イエス・キリスト教会の俗称で、1830年ジョセフ・スミスが創始した。彼はイリノイ州で暗殺され、多くの信者はブリガム・ヤングを二代目の指導者として支持し、モルモン開拓者として迫害の恐れのないソルトレイクシティを建設し、そこが後にユタ州となった。

ライエ・ハワイ教会は、現在運営しているモルモン教会の中で五番目に古く、ユタ州以外に建設されたモルモン教会では一番古い。

現在、ライエ・ハワイ教会のある場所の一帯は、かつては広大なサトウキビ畑で、1865年に砂糖耕地の一部、11エーカーをモルモン教会が購入した。

ライエ・ハワイ教会は、南米の古代文明の遺跡や教典に記されたソロモン神殿を元にしてデザインされた。建築資材は、出来るだけハワイのものを使う方針を打ち出し、溶岩を砕いたものや、珊瑚礁などが多く使われた。

ライエ・ハワイ教会は、輝く白壁と、ギリシャ十字を元にした庭園や池の前庭が特長。教会の四方にある帯状の装飾は、神と人間の関係を表し、北側の装飾は、モルモン教の教典を表している。西側の装飾は旧約聖書、南側の装飾は新約聖書を表し、東側の装飾はモルモン教会を表している。

教会を建設中、建設に必要な材木が足りなくなった。当時ハワイでは、材木は貴重な資材で品薄だったが、ある船が近海で座礁し、荷の材木を下ろさなくてはいけなくなった。信者や建設業者などが、ボランティアとして材木を船から下ろすのを手伝い、教会は、船の好意で材木をもらえることになった。不思議なことに、船から下ろした材木は、教会を完成させるのに丁度必要な量だけあったという。

ライエ・ハワイ教会には、隣接してモルモン教会が運営するブリガム・ヤング大学ハワイ校がある。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第49回 ハナウマベイ

2008年8月27日 17:21 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第49回 腕相撲の湾という伝説のある「ハナウマベイ」

49.jpg オアフ島の東端に位置するハナウマベイは、スノーケルの出来る海岸として観光客や地元の人に人気がある。日本語のような名前だが、ハナはハワイ語で〈湾〉、ウマは〈湾曲〉で、湾曲した湾という意味。

ハナウマベイは、数万年前にオアフ島に起きた火山活動の一環として形成された。海底火山の噴火により、火口から海水と共に大量の火山灰が吹き上げ、地上に盛り上がった。湾内にある最古の珊瑚礁は、7000年前のもので、湾の入口から外側に向って今も珊瑚礁が形成されつつある。

スノーケルをすると、水族館の熱帯魚の水槽の中を泳いでいるような錯覚を受ける湾内には、州の魚のフムフムヌクヌクアプアアや青ウミガメを含む約四百五十種類の海洋生物が棲息しており、その内の約20%から30%がハワイだけに棲息する固有種である。

ハワイ語のウマには、〈腕相撲〉という意味もあり、〈腕相撲の湾〉の由縁となる伝説もある。

かつてハワイには、ケオヒナニという美しい酋長の娘がおり、彼女に想いを寄せるココとハナという二人の酋長がいた。ケオヒナニは、どちらも同じくらい好きだったので、どちらと結婚しようか迷っていたが、二人に腕相撲をさせて、勝った方と結婚すると宣言した。

ケオヒナニの父親のケアナモオ酋長監督のもと、日の出からココとハナの腕相撲が始まった。どちらも力持ちで腕相撲には強く、始まりと共に、二人は満身の力を込めて踏ん張り、腕はどちらにもびくともしなかった。

二人は、腕の筋肉を隆々とさせ、汗びっしょりになって歯を食いしばり続けたが、日が暮れても勝負がつかなかった。ケオヒナニは、このままだと腕相撲は夜通し続き、終いにはどちらも疲労困憊してしまうだろうと思い始めた。

彼女は一人静かにハナウマ湾の一番高い丘に登り、神様に「二人が、私の美しさと清らかさを永遠に眺められるように、私を丘にして下さい」とお願いし、丘になってしまった。

それを見た父親も、娘の優しさに心を打たれ、湾を取り囲む丘陵になった。

ハナウマベイは、上から見ると二つの丘が絡み合ったように見えるのは、二人が腕相撲をしているからだと言われている。
 

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
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第48回 ハワイ州庁舎

2008年8月21日 14:22 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第48回 火山をイメージしたデザインの「ハワイ州庁舎」

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イオラニ宮殿の山側、ベレタニア通りとパンチボウル通りの角にあるハワイ州庁舎は、1969年3月15日に建設された。

ハワイは、1959年8月21日にアメリカの第50番目の州になり、州議会が発足したが、現ハワイ州庁舎が建設されるまでは、隣のイオラニ宮殿で議会が行われていた。

イオラニ宮殿は、デイビット・カラカウア王により1882年にハワイ王国庁舎として建設され、その後、王国が廃されて暫定政府庁舎となり、ハワイ共和国政府庁舎、統治領政府庁舎を経て、現ハワイ州庁舎が建設されるまで、ハワイ州庁舎となっていた。

ハワイは、アメリカで唯一、島の州であるため、海に囲まれたハワイを象徴するように、州庁舎は、プールの上に火山をイメージした斬新で広々としたオープンエアーの5階建ての建物がデザインされた。

建物の外側の巨大な柱は、ハワイのあちこちで見られるヤシの木を象徴し、正面から見ると八本ある。またその上部にある柱が八本ごとに区切られているのは、ハワイのニイハウ島、カウアイ島、オアフ島、モロカイ島、ラナイ島、マウイ島、カホオラヴェ島、ハワイ島の八島を象徴している。

州庁舎の両正面には、大きな州章が飾られている。州章には、ハワイが州になった年の1959年、カメハメハ大王、自由の女神、州のハワイ語のモットーの〈ウア・マウ・ケ・エア・オ・カ・アイナ・イ・カ・ポノ〉(土地の生命は、正しいものに永遠に宿る)があしらわれている。

ハワイ州庁舎には、25議席よりなるハワイ上院議会室、51議席よりなるハワイ下院議会室、州知事室、副知事室などがある。上院、下院とも、議会室は火山をイメージしたデザインになっており、上院議会室には、ハワイの土を象徴する赤茶色を基調にしたタペストリーが飾られ、下院議会室には、ハワイの海や空をイメージしたタペストリーが飾られている。

州庁舎の1階正面には、デミアン神父の銅像がある。デミアン神父は、かつてモロカイ島カラウパパにあったハンセン病療養施設にいた患者の精神的支えとなり、自身もハンセン病にかかり49才で没するまでの16年間、献身的に患者に尽力したことで知られる。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第47回 ハワイ・マリタイム・センター

2008年8月14日 13:23 | アート オアフ島 オプショナルツアー ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第47回 カラカウア王のボートハウスを復元した「ハワイ・マリタイム・センター」

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アロハタワーの隣、ホノルル港第七埠頭にある「ハワイ・マリタイム・センター」は、ビショップ博物館関連施設として、1988年に設立された。この場所は、かつてデイビット・カラカウア王のボートハウスがあり、その建物を復元して建てられたため、設立当時は、「カラカウア王のボートハウス博物館」と呼ばれていた。

「ハワイ・マリタイム・センター」には、イギリス人のクック船長がタヒチから北極に向う途中にハワイを発見した時のことや、ハワイが白檀交易や捕鯨基地として栄えた時代、本土とハワイを結ぶ鍵となったマトソン海運社の歴史など、ポリネシア地域の約1500年に亘る航海史が展示されている。

館内で目を引くのは、体長13.5メートルのザトウクジラの骨格。この骨は、1986年にカホオラヴェ島に打ち上げられたクジラの骨を丁寧に洗い、元のように復元したもので、ハワイの子供たちにより「Lei iwi」(大切な骨のレイ)と名付けられた。

センター隣の埠頭には、1878年にスコットランドで造られた、現存する世界最古の四本マストの帆船、「フォールズ・オブ・クライド」が停泊している。この船は、長い間オイルタンカーとして活躍していたが、1959年、時代遅れを理由に廃船になり、壊して防波堤にすることになっていた。しかし、ハワイ市民の支援やマトソン海運社などの援助金により解体を逃れ、ハワイに牽引されて修復された。

「フォールズ・オブ・クライド」は、その修復や復元状態の良さが認められ、1989年に国の歴史的建造物に指定された。通常は、「フォールズ・オブ・クライド」と共に、ポリネシア伝統の航海カヌー、「ホクレア」が埠頭に横付けされている。

ハワイ語で「喜びの星」という意味の「ホクレア」は、2本マスト、全長約19メートル。1975年にアメリカ合衆国建国200周年記念事業の一環として建造され、翌年からハワイ・タヒチ往還、ハワイ・マルケサス諸島往還、ハワイ・北西ハワイ諸島往還など、様々な航海をしている。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第46回 マキキ日本人墓地

2008年8月11日 17:13 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第46回 日本人の先覚者たちが眠る「マキキ日本人墓地」

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ペンサコーラ通りとワイルダー通りの角にあるマキキ墓地内の日本人墓地は、1900年代の初めに、ホノルル在留日本人の募金により、先覚者の霊を慰めるために建造された。

日本人墓地には、ハワイ移住の先鋒となり、明治から大正、昭和にかけて亡くなった人の墓があり、ハワイの日本人移民の縮図ともいえ、「ハワイ明治会」の会員らが中心となり、奉仕活動として墓地の清掃をしているため整然と護持されている。

敷地内には、「明治元年渡航者之碑」、「三界万霊碑」、「日本海軍軍人鎮魂碑」、「ハワイ日本人移民慰霊碑」など、先覚者の霊を慰める碑が建立されている。

マキキ日本人墓地は、海外に初めて出来た日本海軍墓地でもあり、明治9年、日本海軍創設当時の帝国海軍軍艦初代筑波二等若水夫の荒川又十朗ほか、明治32年までの没者16柱の英霊が埋葬されている。

先駆者に敬意を表し、霊を慰めるため、日本や地元の有志が中心となり、「日本海軍軍人鎮魂碑」と「明治元年渡航者の碑」が建立された。

日本海軍が日本海上自衛隊となった今でも、艦隊がホノルルに寄港する際には必ずこの地を訪れ、先人の参拝や献花を行っている。

また、1885年に初めて官約移民がハワイに移住して以来、この墓地や他所に合計289柱の無縁仏があり、お詣りや掃除をする人のない無縁仏は、次第に荒廃の一途を辿るようになった。

ハワイの日系人組織であるハワイ日系人連合協会(通称連協)は、先駆者たちの墓が荒廃していくのを懸念して、連協の会員やオアフ官約移民百年祭委員会が中心となり、無縁仏を集めて寄せ墓を建立することを決め、そのために約七万ドルの募金を集めた。

高さ約四メートルの花崗岩の寄せ墓碑は、岡山県から運ばれ、官約移民がハワイに到着した101周年に当る1986年2月8日に「ハワイ日本人移民慰霊碑」が建立された。この寄せ墓碑の下には、289柱が眠り、毎年、お盆の時期には、連協の会員らが中心となり供養が行われている。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第45回 ホノルル動物園

2008年8月 3日 15:29 | オアフ島 オプショナルツアー ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠


第45回 カラカウア王の珍鳥収集から始まった「ホノルル動物園」

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ワイキキの東端に位置するホノルル動物園の土地は、かつて王族のものだったが、1874年から1891年まで即位したデイビッド・カラカウア王が、隣接した現在のカピオラニ公園を含む300エーカーの土地を1876年に市民に開放したのがホノルル動物園の始まり。

かつてこの一帯は、潟や養魚池のある沼地で、カラカウア王は、世界中から集めた珍しい鳥をこの場所で飼っていた。
カラカウア王のカピオラニ妃にちなみ、この場所は、1877年にカピオラニ公園と名付けられた。当時は珍鳥が目玉の公園で、カメハメハ・デーには、毎年恒例の「ロシタ・カップ」という競馬が行われた。

暫くして孔雀が仲間入りし、サンフランシスコのゴールデンゲート公園から譲られた樹木やヤシの木が植えられ、カラカウア大通りとカパフル通りにはトロリーが走るようになった。

この場所を恒久的に公園にすることが1896年に決まり、1914年からホノルル市郡政府が管理を始め、猿や熊、ライオンの子供なども仲間入りした。

1916年、蒸気船「ナイアガラ」が、オーストラリアから米本土の動物園やサーカスに動物を運ぶ途中、ハワイに立ち寄った。その中に、アフリカ象のデイジーがいて、当時カピオラニ公園管理者だったホリンジャー氏が市郡政府に購入を懇願し、ホノルル市郡政府のものとなった。

象のデイジーは、背中に子供を乗せて公園内を歩き、市民の人気者だったが、1933年、飼育係を踏みつけて殺したため警官に射撃され、海に葬られた。

1949年に、シマウマ、ダチョウ、エミュ、象、フタコブラクダ、猿、アシカ、亀などが加えられ、1974年には、ラクダ、象、チンパンジーが寄贈された。

現在、42エーカーのホノルル動物園には、324種類、約1,200匹の動物が集められ、年間75万人が訪れるハワイの人気スポットになっている。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。