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第49回 ハナウマベイ

2008年8月27日 17:21 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第49回 腕相撲の湾という伝説のある「ハナウマベイ」

49.jpg オアフ島の東端に位置するハナウマベイは、スノーケルの出来る海岸として観光客や地元の人に人気がある。日本語のような名前だが、ハナはハワイ語で〈湾〉、ウマは〈湾曲〉で、湾曲した湾という意味。

ハナウマベイは、数万年前にオアフ島に起きた火山活動の一環として形成された。海底火山の噴火により、火口から海水と共に大量の火山灰が吹き上げ、地上に盛り上がった。湾内にある最古の珊瑚礁は、7000年前のもので、湾の入口から外側に向って今も珊瑚礁が形成されつつある。

スノーケルをすると、水族館の熱帯魚の水槽の中を泳いでいるような錯覚を受ける湾内には、州の魚のフムフムヌクヌクアプアアや青ウミガメを含む約四百五十種類の海洋生物が棲息しており、その内の約20%から30%がハワイだけに棲息する固有種である。

ハワイ語のウマには、〈腕相撲〉という意味もあり、〈腕相撲の湾〉の由縁となる伝説もある。

かつてハワイには、ケオヒナニという美しい酋長の娘がおり、彼女に想いを寄せるココとハナという二人の酋長がいた。ケオヒナニは、どちらも同じくらい好きだったので、どちらと結婚しようか迷っていたが、二人に腕相撲をさせて、勝った方と結婚すると宣言した。

ケオヒナニの父親のケアナモオ酋長監督のもと、日の出からココとハナの腕相撲が始まった。どちらも力持ちで腕相撲には強く、始まりと共に、二人は満身の力を込めて踏ん張り、腕はどちらにもびくともしなかった。

二人は、腕の筋肉を隆々とさせ、汗びっしょりになって歯を食いしばり続けたが、日が暮れても勝負がつかなかった。ケオヒナニは、このままだと腕相撲は夜通し続き、終いにはどちらも疲労困憊してしまうだろうと思い始めた。

彼女は一人静かにハナウマ湾の一番高い丘に登り、神様に「二人が、私の美しさと清らかさを永遠に眺められるように、私を丘にして下さい」とお願いし、丘になってしまった。

それを見た父親も、娘の優しさに心を打たれ、湾を取り囲む丘陵になった。

ハナウマベイは、上から見ると二つの丘が絡み合ったように見えるのは、二人が腕相撲をしているからだと言われている。
 

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第47回 ハワイ・マリタイム・センター

2008年8月14日 13:23 | アート オアフ島 オプショナルツアー ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第47回 カラカウア王のボートハウスを復元した「ハワイ・マリタイム・センター」

47.jpg
アロハタワーの隣、ホノルル港第七埠頭にある「ハワイ・マリタイム・センター」は、ビショップ博物館関連施設として、1988年に設立された。この場所は、かつてデイビット・カラカウア王のボートハウスがあり、その建物を復元して建てられたため、設立当時は、「カラカウア王のボートハウス博物館」と呼ばれていた。

「ハワイ・マリタイム・センター」には、イギリス人のクック船長がタヒチから北極に向う途中にハワイを発見した時のことや、ハワイが白檀交易や捕鯨基地として栄えた時代、本土とハワイを結ぶ鍵となったマトソン海運社の歴史など、ポリネシア地域の約1500年に亘る航海史が展示されている。

館内で目を引くのは、体長13.5メートルのザトウクジラの骨格。この骨は、1986年にカホオラヴェ島に打ち上げられたクジラの骨を丁寧に洗い、元のように復元したもので、ハワイの子供たちにより「Lei iwi」(大切な骨のレイ)と名付けられた。

センター隣の埠頭には、1878年にスコットランドで造られた、現存する世界最古の四本マストの帆船、「フォールズ・オブ・クライド」が停泊している。この船は、長い間オイルタンカーとして活躍していたが、1959年、時代遅れを理由に廃船になり、壊して防波堤にすることになっていた。しかし、ハワイ市民の支援やマトソン海運社などの援助金により解体を逃れ、ハワイに牽引されて修復された。

「フォールズ・オブ・クライド」は、その修復や復元状態の良さが認められ、1989年に国の歴史的建造物に指定された。通常は、「フォールズ・オブ・クライド」と共に、ポリネシア伝統の航海カヌー、「ホクレア」が埠頭に横付けされている。

ハワイ語で「喜びの星」という意味の「ホクレア」は、2本マスト、全長約19メートル。1975年にアメリカ合衆国建国200周年記念事業の一環として建造され、翌年からハワイ・タヒチ往還、ハワイ・マルケサス諸島往還、ハワイ・北西ハワイ諸島往還など、様々な航海をしている。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第46回 マキキ日本人墓地

2008年8月11日 17:13 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第46回 日本人の先覚者たちが眠る「マキキ日本人墓地」

46.jpg

ペンサコーラ通りとワイルダー通りの角にあるマキキ墓地内の日本人墓地は、1900年代の初めに、ホノルル在留日本人の募金により、先覚者の霊を慰めるために建造された。

日本人墓地には、ハワイ移住の先鋒となり、明治から大正、昭和にかけて亡くなった人の墓があり、ハワイの日本人移民の縮図ともいえ、「ハワイ明治会」の会員らが中心となり、奉仕活動として墓地の清掃をしているため整然と護持されている。

敷地内には、「明治元年渡航者之碑」、「三界万霊碑」、「日本海軍軍人鎮魂碑」、「ハワイ日本人移民慰霊碑」など、先覚者の霊を慰める碑が建立されている。

マキキ日本人墓地は、海外に初めて出来た日本海軍墓地でもあり、明治9年、日本海軍創設当時の帝国海軍軍艦初代筑波二等若水夫の荒川又十朗ほか、明治32年までの没者16柱の英霊が埋葬されている。

先駆者に敬意を表し、霊を慰めるため、日本や地元の有志が中心となり、「日本海軍軍人鎮魂碑」と「明治元年渡航者の碑」が建立された。

日本海軍が日本海上自衛隊となった今でも、艦隊がホノルルに寄港する際には必ずこの地を訪れ、先人の参拝や献花を行っている。

また、1885年に初めて官約移民がハワイに移住して以来、この墓地や他所に合計289柱の無縁仏があり、お詣りや掃除をする人のない無縁仏は、次第に荒廃の一途を辿るようになった。

ハワイの日系人組織であるハワイ日系人連合協会(通称連協)は、先駆者たちの墓が荒廃していくのを懸念して、連協の会員やオアフ官約移民百年祭委員会が中心となり、無縁仏を集めて寄せ墓を建立することを決め、そのために約七万ドルの募金を集めた。

高さ約四メートルの花崗岩の寄せ墓碑は、岡山県から運ばれ、官約移民がハワイに到着した101周年に当る1986年2月8日に「ハワイ日本人移民慰霊碑」が建立された。この寄せ墓碑の下には、289柱が眠り、毎年、お盆の時期には、連協の会員らが中心となり供養が行われている。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第44回 ワイアルア製糖工場跡

2008年7月28日 19:48 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第44回 砂糖生産の名残り「ワイアルア製糖工場跡」

sketch.jpg ノースショアのワイアルアにある「ワイアルア製糖工場」の歴史は、今から140余年前にさかのぼる。1864年、リーバイ・チャンバーレイン氏は、ワイアルアの空き地が砂糖耕作に適していることに目を付け、製糖工場を設立した。

 南北戦争時代、本土の砂糖生産が減ったため、この製糖工場は全盛を極めたが、1865年の南北戦争終結と共に衰退し、1870年頃、製糖工場は銀行に担保として取られた。

 1875年、製糖工場は、ロバート・ハルステッド氏が買い取り、「ハルステッド・ブラザーズ」という製糖会社を設立した。しかし、採算が合わず、会社は更に「キャッスル&クック社」に売却された。

 「キャッスル&クック社」は、工場を近代化すると共に、近隣の農地を購入したり賃借権を得て、1898年に「ワイアルア農業社」を設立した。1930年代半ばには、 「ワイアルア農業社」は、ハワイでも有数の製糖会社として全盛を極め、1万エーカ ー以上の砂糖耕地があった。1,700人の従業員は、敷地内の社宅に住み、この村は通称キャンプと呼ばれた。

 「ワイアルア農業社」は、1985年にデイビッド・マードック氏に売却され、「ド ールフーズ社」系列の「ワイアルア製糖社」を設立した。しかし、ハワイの製糖会社は、次第に賃金の安い外国との価格競争を強いられ、経営が厳しくなった。この情勢に引きつれ、1993年から「ドールパイナップル社」の経営陣が「ワイアルア製糖社」の運営も始めたが、経営は益々悪化し、「ワイアルア製糖社」は、1996年10月4日に閉鎖した。

 その後、「ワイアルア製糖社」の建物の一部は取り壊され、残りの建物は、現在「ドールフーズ社」の「ワイアルア・コーヒー」やカカオの乾燥醗酵工場となり、コーヒ ーを販売する店舗や、サーフボード工場、石鹸工場、自動車修理店などが入店してい る。

 かつてオアフ島には、この「ワイアルア製糖社」の他、「カフク・プランテーション社」 、「エワ・プランテーション社」、「ワイマナロ製糖社」、「ワイアナエ社」、アイエアの「ホノルル製糖社」、ワイパフの「オアフ製糖社」など、各地に製糖工場があった。 ワイパフの「オアフ製糖社」は、1995年に閉鎖したが、その工場跡の近くに、「ハワイ・プランテーション・ビレッジ」というハワイの砂糖生産の歴史博物館が1992年に設立され、現在週6日開館している。

 ハワイの砂糖生産は、1835年にカウアイ島コロアに砂糖きびの耕作をしたことから始まる。1837年、ここで初めて2トンの粗糖を生産して以来、ハワイの砂糖生産は、水不足、労働者不足、交易問題、市場不足など、様々な問題を抱えながら次第に発展した。

 砂糖生産が伸びるにつれ、労働者不足となり、1852年から、中国、ポルトガル、プエルトリコ、日本、韓国、フィリピンから沢山の人が労働者としてハワイに移住し、混血も生まれ、これらの移民労働者が、現在メルティングポット(人種のるつぼ)と呼ばれるハワイの多民族社会を形成する基盤となった。

 砂糖生産は、1876年には、年間1万3千トン、1932年には100万トン生産するようになり、以来1980年代中頃まで、毎年約100万トンの生産を続け、ハワイの主要産業として君臨した。しかし、ハワイの砂糖生産は、次第に外国に押され始め、衰退の一途をたどった。1990年代には、ハワイの製糖会社は次々と閉鎖し、現在は、カウアイ島とマウイ島に一社ずつ残すのみとなった。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
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第43回 アラワイ運河

2008年7月21日 14:01 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第43回 世界のリゾート・ワイキキを生んだ「アラワイ運河」

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 ワイキキ図書館からアラワイ・ヨットハーバーまで流れるアラワイ運河は、ワイキキがかつて ヌアヌ、パロロ、マノアの小川の水が流れ込む沼地だった頃、水はけのために建設が計画された。

 ワイキキ周辺には、かつてタロ芋畑や水田があり、魚やアヒルもいたが、1900年代初頭、この一帯の沼地に蚊が大発生したため、保健衛生上の理由から沼地を干拓し、運河を建設することが決まった。

 干拓工事は1921年から始まり、運河は1928年に完成した。運河の建設により、山から流れ込む川の水をワイキキ沖に流さず、アラモアナ寄りの場所に流すことで、1平方マイル弱の現在のワイキキの敷地が生まれた。

 近隣の衛生のために建設されたアラワイ運河だったが、人工的に造られた川のため流れが遅く、1943年には、蚊を媒介して発生する伝染病のデング熱がワイキキで発生した。また、ホノルル都心部の排水溝の水も流れ込むため、川底にゴミなどが溜まり、バクテリアの発生も問題になり、これまでに何度も川底を浚渫している。

 2006年3月には大雨が続き、下水処理場が許容量以上の下水を処理出来ず、ハネマン・ホ ノルル市長が、下水を一時アラワイ運河に流すことを許可した。このため、暫くワイキキやアラワイ・ヨットハーバーの水に入ることを禁止する事態になった。

 現在もアラワイ運河の水に浸かることはよくないとしているが、カヌーの練習場としてよく利用されている。アラワイ運河沿いには、ゴルフ場、ハワイ・コンベンション・センターなどがあり、運河沿いの小径は、観光客や地元住民の散歩やジョギングの場所として利用されている。また、随所にベンチもあるため憩いの場所にもなっている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
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第42回 曹洞宗ハワイ別院正法寺

2008年7月14日 16:34 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第42回 インドの寺院をモデルにした「曹洞宗ハワイ別院正法寺」


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 ヌアヌ通りの在日本国総領事館の海側にある「曹洞宗ハワイ別院正法寺」の歴史は、今から100年以上前にさかのぼる。

 1903年(明治36年)、砂糖耕地で働く日系一世の人を援助するために、日本から曹洞宗の僧侶、菅良雲師と河原仙英師がハワイに訪れ、菅師がカウアイ島に布教所を設立し、河原師がワイパフに仮布教所を設立した。

 1913年には、ホノルルのホール通りに「曹洞宗両大本山仮別院」を設立し、入仏式の後、1921年に正式に「ハワイ別院」として認証された。 1932年には、付属の日本語学校として和敬学園を創設した。

 1934年に、ヌアヌ通り(現在の場所)に2エーカーの敷地を購入し、別院新本堂建立の準備を始めたが、1941年12月7日の日米開戦により、布教活動は全て中止された。

 終戦後、ハワイの日系社会は大きく変貌し、一世よりハワイ生まれの二世の時代になり、戦前まで温存されていた日本の生活様式が次第にアメリカ化し始めた。 この変化に対応するために、当時別院の住職だった駒形善教師が、これまでの日本式の寺院ではなく、国際化社会に対応する本堂を建設する方針を打ち出した。

 1952年、釈迦の生誕地であるインドのブッダガヤの大塔を模した塔を中央に配し、洋式の寺院内装と設備を完備した現在の寺院が完成した。 設立当時は、ホノルルでも異彩を放つ建物として名所となり、しばらく本土からの観光客をはじめ、来訪者が絶えなかったという。 週末には、日系二世の仏式結婚式が行われ、1980年代後半までに500組以上の挙式が行われた。

 日本語学校としての和敬学園は1990年になくなり、以後は「曹洞アカデミー」という英語の小学校になっている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
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第41回 ダイヤモンドヘッド

2008年7月 7日 18:38 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第41回 年間約八十万人が訪れる「ダイヤモンドヘッド」


 
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 ワイキキの東側に位置するダイヤモンドヘッドは、約30万年前に起きた一度の噴火によって出来た死火山。 受皿型の噴火口は、約1.4平方キロメートル。 噴火中に風によって灰が南西部に吹き付けられたため、外輪山の南西部が最高峰になっている。

 噴火後、火口の外壁が風雨や打ち寄せる波により浸食されたため現在のような形になった。 ダイヤモンドヘッドは、その独特な形状のため、1968年に国立自然史蹟に指定された。

 ダイヤモンドヘッドの名前の由来は、1700年代後半、ここを訪れた西欧の探検家や商人が、噴火口壁面の岩石の中に方解石の結晶を見付け、ダイヤモンドと間違えたため、ダイヤモンドヘッドと名付けられた。

 ハワイ語では「レアヒ」と言うが、ハワイの伝説で、火山の女神ペレの妹のヒイアカ が、ダイヤモンドヘッドの頂上の形が、まぐろ(アヒ)の額(レア)に似ていること から、「レアヒ」と名付けたといわれている。

 ダイヤモンドヘッドの周りには高い山がなく、頂上からは沿岸がよく見渡せるため、 1904年に軍事目的のために連邦政府に買い上げられた。 1908年から、要塞の建設が始まり、最初にカパフル・トンネル(現在閉鎖中)が建設された。

その後、頂上に砲撃司令所、外輪山には砲台が5か所建設された。 この砲撃司令所と砲台は、オアフ島を外部の攻撃から守るために建設されたが、戦時中ここから一度も砲撃することはなかった。

1980年代には、年間約4万人が訪れるようになり、頂上に登るハイキング道の浸食が酷くなったため、1997年より、その一部を舗装したり、整備をしている。 現在は、年間約80万人が訪れる世界有数の名所になっている。

カイマナビーチホテルの前には、戦前、大正天皇御即位大礼記念として日本政府が寄贈した鳳凰の噴水塔があったが、戦時になり荒廃して取り壊された。 現在ある噴水は、卓越した企業家だったウォルター・デリンハム氏の妻のルイーズさんを記念して、かつての噴水跡に、1967年に建てられたもの。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
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第40回 カメハメハ5世郵便局

2008年6月30日 15:32 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第40回 現存する米国最古の公共建造物「カメハメハ5世郵便局」


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 ホノルルのダウンタウンの一角、マーチャント通りとベセル通りの角の灰色の2階建の建物は、ハワイ初のコンクリート製建造物で、カメハメハ5世が建設を指示したハワイ初の郵便局であるため、通称「カメハメハ5世郵便局」と呼ばれている。

 カメハメハ5世は、建築設計者に、イギリス出身の熟練した煉瓦職人のJ・Gオズボーン氏を任命し、建設総工費に13,000ドルを投じた。オズボーン氏は、故郷のイギリス・ヨークシャー地方の「ルネッサンス・リバイバル様式」の建物を模してデザインした。

 建造の際に、鉄筋がコンクリート補強の為に使われたが、この建築方法は、当時ヨーロッパでは試験的に行われていたが、アメリカではまだ用いられていない方法だった。この建物の建設成功を機に、後にホノルルではコンクリートを使った建物建築が盛んになった。

 1871年3月、この建物の一角に郵便局が開局し、建物の他の部分は事務所として使われていたが、1894年に建物全体が郵便局となった。一時期、郵便局の窓口は、「女性」、「外人」、「ハワイアン」、「日本人」、「ポルトガル人」、「切手」に分かれており、建物の角の部分は、馬を繋ぐ場所に使われていた。郵便局の業務拡張により、1922年に近隣の連邦政府ビルに移り、この建物には分局のみが残った。

 以後様々な政府関係の事務所として使われたが、現在は、「クム・カフア・シアター」という劇場になっている。「カメハメハ5世郵便局」は、現存する米国最古の公共建造物であり、1972年、米国の歴史的建造物として指定され、1987年には、米国土木工学協会の歴史的土木工学名所に指定された。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
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第39 回 ホノルルハレ(市庁舎)

2008年6月23日 15:24 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第39回 スペイン様式の瓦が映える「ホノルルハレ」(市庁舎)


 
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 南キング通りとパンチボウル通りの角にあるホノルル市庁舎の「ホノルル・ハレ」 は、ジョセフ・J・ファーン初代ホノルル市長の構想により建設された。ホノルル 市郡政府の前身であるオアフ郡監督委員会は、1900年に創設されたが、委員会の会議室がなかったため、毎回違うダウンタウンの場所で会議を開いていた。

 当時、監督委員会の監督の一人だったファーン氏は、恒久的な市議会室が必要だという構想を持ち、建設の呼びかけを始めた。 1907年、オアフ郡監督委員会が改組となりホノルル市郡政府が創設され、ファーン氏が初代市長に選ばれた。ファーン市長は、ホノルル市庁舎の建設計画を押し進めたが、完成を見ずに、1920年に亡くなった。

 次に市長となったジョン・ウィルソン市長は、米国技師協会のハワイ支部長でもあり、ファーン前市長の建設計画を受け継いで工事を進め、当時流行したカリフォルニア・スペイン植民地様式を取り入れた今の「ホノルル・ハレ」が1928年に完成した。

 白い塔とオレンジ色の瓦屋根が特徴の「ホノルル・ハレ」は、1978年、ハワイ 州庁歴史地区の一環として、国から歴史的建造物に指定された。 現在「ホノルル・ ハレ」には、市長室と市議会室があり、市郡政府の関連事務所ビルは、少し東の南キング通りとアラパイ通りにある。

 毎年クリスマスシーズンには、「ホノルル・シティ・ライト」と称し、「ホノルル ・ハレ」の一角はクリスマスデコレーションで華やかに飾られる。 庁舎の前には、毎年巨大なクリスマスツリーが設置され、サンタクロースとサンタクロース夫人の人形もお目見えし、夜のライトアップを見るために遠くからわざわざ訪れる人もいる。

   

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第38回 ハワイ・コンベンション・センター

2008年6月16日 16:22 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第38回 斬新なデザインが映える「ハワイ・コンベンション・センター」


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 カラカウア大通りとカピオラニ通りの角にある「ハワイ・コンベンション・センター」は、総工費3億5千万ドルを投じて、1997年10月に竣工し、1998年6月にオープンした。

 設計を担当したのは、「ウインバリー・アリソン・タン&グー」で、『ハワイを感じられる場所』をテーマに設計され、ハワイの建築様式や自然な景観に主眼を置き、周辺の環境や歴史・文化などにも配慮して建設された。

 四階建て、総ガラス張りの建物には49室の会議室があり、共有スペースや通路には、外からの新鮮な空気が流れ込むような構造になっており、随所にあしらわれた植物が南国らしい彩りを添えている。 開放的なガラス張りのロビーには、4階から流れ落ちる滝と椰子の木があり、空が透けて見える構造になっている。マルチレベル・エスカレーターからは、遠くの山々が綺麗に見渡せるほか、屋上庭園からは、海と山の両方が見渡せる。

 ビルの屋根には、古代ハワイに最初に辿り着いた双銅カヌーの帆を象徴する伸縮性のあるデザインが用いられ、ガラス張りの建物にアクセントを添えて いる。2001年、センターは、オアフ島に新たに設計された最優秀建造物 として、アメリカ建築学会ホノルル支部より「優秀賞」と「市長賞」が授与された。

 総収容人数約2万9千人のセンターには、六ヶ国語同時通訳設備や衛星通信対応設備、テレビ会議センター、ハイテク視聴覚シアターなどもあり、国際的にも最新ハイテク設備を完備した会議施設だと定評がある。館内随所には、200万ドルを投じてハワイの芸術家たちに委託した作品の数々が展示されている他、ハワイを拠点に世界的に活躍した芸術家の故ジーン・シャーロットのフレスコ画なども展示されており、美術館的な役割も果たしている。

 

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。