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プロフィール

西川 幸夫
1939 年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。スケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。




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ホノルル点描 マッキンレー高校

2009年6月28日 01:00 | オアフ島 ハワイで暮らす 学校、教室 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第92回 第25代大統領に因んで付けられた「マッキンレー高校」


マッキンレー高校
南キング通りのニール・ブレイズデル・センターの隣にあるマッキンレー高校は、1865年にダウンタウンのフォート通り教会の地下に〈フォート通り英語学校〉として創立した。

同校は、1895年にカメハメハ大王の曾孫にあたるルス王女の宮殿内に移転し、名前も〈ホノルル高校〉に改名された。

1907年には、ベレタニア通りとヴィクトリア通りの角に移転し、米国第25代大統領であるマッキンレー氏に因み、〈ウィリアム・マッキンレー大統領高校/William McKinley High School〉に改名された。

マッキンレー大統領は、ハワイ諸島をアメリカの統治国にすることに貢献したため、同大統領の功績を称え、1911年にマッキンレー大統領の銅像が校内に建立された。

1923年には、現在のキング通りの場所に移転し、PTAの働きかけで資金を募り、当時としてはハワイ最大の講堂が1927年に建設された。

1920年代には、プール建設計画が持ち上がり、生徒もツルハシやスコップを持って、プール建設予定地を掘り起し始めた。

しかし、資金ぐりのめどがつかなくなり、建設は一旦中止されたが、生徒らが中心となって募金活動で12,000ドルを集め、プールは1926年に完成した。

現在マッキンレー大統領の銅像は、管理棟の前にあるが、その周りの楕円形の芝生の部分(オーバル)は、横切ってはいけない校則になっている。同校では、毎年6月第1日曜日に卒業式が行われるが、卒業生だけが、卒業式当日のみ、この楕円形の芝生を横切ることが許されている。

近年、同校は600万ドルを投じて総合体育館を建設することを検討している。この計画では、2年以内に地鎮祭をして、2012年に完成を予定しているが、具体的なことは、まだこれから煮詰められる予定。

現在生徒数約2,000人のマッキンレー高校は、ハワイでも古い公立高校の一つで、数棟の建物が、国と州の歴史的建造物に指定されている。

同校の著名な卒業生には、ダニエル井上上院議員、ジョージ有吉元ハワイ州知事、オリンピック金メダリストでサーフィンの父と呼ばれるデューク・カハナモク、芸術家のサトル・アベ、プロレスラーで俳優のドウェイン・ロック・ジョンソンなどがいる。

モイリイリ・コミュニティ・センター

2009年2月26日 14:00 | オアフ島 学校、教室 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第75回 日本語学校として始まった「モイリイリ・コミュニティ・センター」

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モイリイリの南キング通りとベレタニア通りに囲まれた三角公園の南にあるモイリイリ・コミュニティ・センターの歴史は、1893年にこの地区で日本語教室が始まったことにさかのぼる。

1890年代、モイリイリには沢山の日系一世が住んでいた。しかし、その子供たちがアメリカナイズされて、日本語を知らずに育つのを懸念した一世たちは、日本語教育の必要性を感じていた。そんな情勢を踏まえて、日系一世の柏原喜八さんは、現在「スターマーケット」のある場所にあった自宅を開放して、日本語教室を始めた。

この日本語教室の存在が知られるにつれて、次第に学校を設立すべきだという声が持ち上がり、1902年、現在自然食品店の「ダウン・トゥ・アース」のビルがある場所に「日本語小学校」が設立された。生徒は17人。週6日、学校の放課後、ここで毎日1時間から2時間の日本語の授業が行われた。

1928年、父兄や地域住民が寄付を募り、現在センターがある場所の土地を購入し、敷地内に中学校や女学校も設立した。学校は、「モイリイリ日本語学校」に改名され、柔道・剣道場も出来、1941年には、生徒数も千人余に増えた。

同年、第二次世界大戦が勃発し、学校は閉鎖されて軍事目的に使われた。戦時中、弁護士で開発業者だった金沢金司氏が白人の有識者などに協力を頼み、学校の施設を政府に没収されないように働きかけた。

1942年、「モイリイリ日本語学校」の施設を日系人のみならず、地域住民の福祉ために使うように、「カ・モイリイリ委員会」が発足し、かつての日本語学校の施設は、委員会が管理するようになった。

その後、非営利団体「モイリイリ・コミュニティ協会」が発足し、1948年に公民館のような役割りをする施設がオープンした。協会は、1965年に、更に「モイリイリ・コミュニティ・センター」に改名され、様々な文化活動がこのセンターで行われるようになった。

1976年1月、現在の三階建てのモイリイリ・コミュニティ・センターが建設され、多様な民族よりなる地域住民の公民館的な役割りをしている。日本語や習い事の文化教室があり、子供から大人まで、千人余の生徒がいる。また、センターでは、高齢者の出張ケアサービスやプログラムも運営している。

さらに、センターでは収入源として、1970年代から教室の一角をスリフトショップにし、寄付された衣類、日用品、本などを安価で販売していた。しかし、その建物が老朽化したため、寄付を募り、現在、「ダウン・トゥ・アース」ビルの左隣にあるスリフトショップが1992年11月にオープンした。

今でも、1920年代に建てられた日本語学校の校舎が「サイレント・ダンス・スタジオ」として敷地内にあり(絵の左側の建物)、ヨガ、バレー、モダンダンス教室が行われている。
     
この地区の名前であるモイリイリは、その昔、カ・モク・イリイリと呼ばれていた。イリイリは、ハワイ語で小石のことで、昔モイリイリには沼地や小川があり、小石も沢山あったので、〈小石が沢山ある地区〉という意味のカ・モク・イリイリと付けられたという。その後、カモイリイリとなり、更に短くモイリイリとなった。

かつての日系一世たちは、「モイリイリ」が言いにくかったため、「モイリリ」と言っていたが、モイリイリが正しい。

ホノルル点描 ハワイ・ホール

2009年1月15日 14:00 | オアフ島 ハワイで暮らす 学校、教室 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第69回 ハワイ大学マノア校の初の校舎「ハワイ・ホール」

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マノアにあるハワイ大学マノア校は、1907年に農業機械技術校としてスタートした。校舎はトーマススクエアの東側、現在アカデミーアートセンター・アト・リネコナのある場所にあったが今は取り壊されて無い。学生は5人、講師は12人だった。

1912年に現在のマノアの場所に移転し、かつてキアベの林や養豚場だった所を一掃して、初めての校舎、「ハワイ・ホール」(上の絵・当初はメイン・ホールと呼ばれた)が建設され、カレッジ・オブ・ハワイと改名された。

1920年には、ハワイ大学と改名し、構内にアジア太平洋地域の研究機関の「イースト・ウエスト・センター」の前身の東洋学校が1935年に設立された。 

1941年12月7日の真珠湾攻撃の後、大学は2ヵ月間閉鎖されたが、日系の学生たちが「ヴァーシティ・ビクトリー・ボランティア」を結成し、民間防衛の援助をした。このメンバーの多くが、第100大隊の一員となり、第2次世界大戦で活躍して戦果を上げている。

1950年には、ハワイ大学ヒロ校が設立。1964年には、コミュニティ・カレッジ・システムが導入され、ホノルル・コミュニティ・カレッジ、カピオラニ・コミュニティ・カレッジ、カウアイ・コミュニティ・カレッジ、マウイ・コミュニティ・カレッジがハワイ大学組織に加わった。当初「ハワイ大学」と命名されたキャンパスは、「ハワイ大学マノア校」に改名され、1967年にはジョン・A・バーンズ医学校もハワイ大学組織に加わった。

現在は、マノア校、ヒロ校、ウエスト・オアフ校、前記の4コミュニティ・カレッジに加え、ハワイ・コミュニティ・カレッジ、リーワード・コミュニティ・カレッジ、ウィンドワード・コミュニティ・カレッジ、ジョン・A・バーンズ医学校、ウィリアム・リチャードソン法学校を総合してハワイ大学組織と呼んでいる。

ハワイ大学組織では、現在、123の学士課程、93の修士課程、52の博士課程など、合計624の学位を修得出来るコースがあり、大学生、大学院生合わせて5万人余が10のキャンパスで学んでいる。

マノア校最古の校舎「ハワイ・ホール」は、1984年に州の歴史的建造物に指定された。しかし、この校舎にはエアコンが無く、老朽化も進んだため、2001年から1500万ドルを投じて改修工事を行い、外観が元のように修復され、エアコンも付けられた。

ハワイ大学のフットボールチームの「ウォリアーズ」は、大学創立100周年を迎えた昨年、ハワイ大学史上初のシーズン全勝の快挙を成し遂げた。しかし、リーグで優勝した2チームが競う「シュガーボウル」では、ジョージア大学に敗退。

それまで過去9年間「ウォリアーズ」のコーチを務めたジュン・ジョーンズ氏も1973年から74年まで、ハワイ大学に在籍している。また、ハワイの現連邦上院議員、下院議員は、4人ともハワイ大学の卒業生である。

第58回 マノア日本語学校

2008年10月29日 13:00 | オアフ島 ハワイで暮らす 学校、教室 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第58回 現存するハワイ最古の日本語学校「マノア日本語学校」

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マノア日本語学校は、1910年11月3日、おきむらこきち氏により設立され、12人の生徒に日本語を教えることから始まった。

当時ハワイはまだハワイ統治領で、ハワイ大学は創立3年目、マッキンレー高校は創立2年目を迎えたばかりで、ハワイの人口は19万人だった。

マノア日本語学校の敷地は、1929年3月にリリウオカラニ財団から購入し、同年校庭に松の木が植樹されたが、その松の木は現在でも2つの校舎の間に立っている。

1941年、第二次世界大戦勃発によりマノア日本語学校は閉鎖された。学校の5人の理事らは、政府から学校の引き渡しを強く要請され、度重なる圧力をかけられたが、確固に守り続けた。しかし、校舎は終戦の1945年まで政府の管轄下に置かれた。

多くの日本語学校は、第二次世界大戦中に学校の敷地を失ったが、現在マノア日本語学校があるのは、理事らが確固たる信念で学校を守り通したからである。

1948年5月、マノア日本語学校は、250人の生徒と共に再開した。1955年にはマノア小学校の建物を1,000ドルで買い、現在の場所に移築するのに6,000ドルかかった。また、同年校舎の裏にあった家を買い、校長の官舎にした。

1959年、ハワイがアメリカの50番目の州になった翌年、マノア日本語学校は50周年を迎えた。1962年、新校舎が設立されたが、松の記念樹は古い校舎の象徴としてそのまま残された。

最近では、マノア小学校とノエラニ小学校の生徒が放課後、安全にマノア日本語学校に通えるように、スタッフが両小学校まで生徒を迎えに行き、引率している。

学校では、日本語の授業が行われている他、校舎を利用してバレー、柔道、公文、ピアノの教室も開催されている。また、毎年、新年会、話し方会、運動会などの行事が行われるほか、毎年生徒たちがマノア・クリスマス・パレードに参列している。

現在生徒数は140人。オアフ島最大の日本語学校である。



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。