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プロフィール

西川 幸夫
1939 年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。スケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。




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ホノルル点描 ハレクラニ

2009年6月14日 01:00 | オアフ島 ホテル 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第90回 天国に相応しい館という意味の「ハレクラニ」


ハレクラニ・ホテル

ワイキキのカリア通りのオーシャンフロントにあるハレクラニの歴史は、19世紀にさかのぼる。

19世紀後半、ホノルルで、〈ルワーズ&クック〉という材木業を営んでいたロバート・ルワーズ氏は、1883年に、現在ハレクラニがある場所に、木造2階建ての家を建てた。

ルワーズ氏は、とても寛容な人だったため、漁師たちが自宅の庭を通って海に行ったり、庭のハウの木の下で網を乾かすことを快く受け入れた。

彼の厚意に感謝した漁師たちは、彼の家をハワイ語で、「天国に相応しい館」という意味の〈ハレクラニ〉と呼んでいた。

ちなみに、ハレクラニに至るワイキキのルワーズ通りは、ルワーズ氏に因んで付けられた。

ホノルルのジャーナリストのエドウィン・アーウィン氏は、1907年にルワーズ氏から、この2階建ての建物を借り、〈ハウ・ツリー〉というホテルにした。これがハレクラニの前身である。

5つのバンガローを含むホテルは、客室21室、40人余を収容することが出来たが、滞在客はまばらで採算が取れなかったため、アーウィン氏は、賃貸し契約満了を機に事業から手を引いた。

このため、家主のルワーズ氏は、「ホテルの借り手を求む」という広告を出した。

クリフォード・キンボール氏は、当時ノースショアの〈ハレイワ・ホテル〉を夫人と共に運営していたが、〈ハウ・ツリー〉の広告を見て、1か月150ドルで借りる契約をした。

当初は、1日3人ほどの滞在客しかいなかったが、夫妻は、家族的で温かい、きめの細かいサービスを提供した。そのもてなしが口づてに広まり、次第に滞在客が増えていった。

事業が軌道に乗ったキンボール氏は、1917年にホテルを購入し、その後、近隣の土地も購入して敷地面積を広げた。

しかし建物が老朽化したため、1931年に16万ドル余を投じて、115室の建物に改築された。ちなみに、改築後、1940年頃の宿泊料は、3食付きで6ドルから9ドルだった。

キンボール夫妻が死去したのを機に、ホテルは1962年にシアトルのクラップ家に売却され、1981年には、三井不動産(現地法人ハレクラニ・コーポレーション)に転売された。

その後、ホテルの大改装が行われ、一1984年3月に〈ホテルズ&リゾーツ・オブ・ハレクラニ〉として新装オープンした。

現在、〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉というレストランがある場所は、かつてホノルルのシェリフだったアーサー・ブラウン氏の邸宅があった。

キンボール氏と作家のアール・ダー・ビガース氏は、ブラウン邸をよく訪れ、日没を眺めながら酒宴を重ねた。その酒宴にホノルル警察のチャング・アパナ刑事が加わることもあり、ビガース氏は、アパナ刑事をモデルにしたチャーリー・チャンという刑事を主人公にした〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉という小説を書いた。

〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉は、「鍵の無い家」という意味で、当時ホノルルは治安が良く、家に鍵をかけなくても盗難の心配が無かったことに由来している。

小説〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉は、ベストセラーになり、シリーズ化されて映画も作られた。レストランの〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉は、物語の生まれたの場所であることに因んで名付けられた。

ハレクラニ・ホテルは、キンボール夫妻のきめの細かいサービスの伝統を引き継ぎ、現在も顧客サービスに定評がある。

ロイヤル・ハワイアン・ホテル

2008年11月27日 14:00 | オアフ島 ホテル 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第62回 ピンク・パレスと呼ばれる「ロイヤル・ハワイアン・ホテル」

62.jpg
ワイキキにある「ピンク・パレス/ピンク・レディ」という愛称の「ロイヤル・ハワイアン・ホテル」は、1927年2月1日にオープンした。現存するワイキキのホテルとしては、「モアナ・ホテル(現 モアナ・サーフライダー ウェスティン・リゾート&スパ)」に次ぎ古い。

20世紀初頭、マトソン客船に乗ってハワイに訪れる人が増えるに連れ、客船と同様の一流サービスが当地でも求められ、マトソン社は「ロイヤル・ハワイアン・ホテル」の建設を決めた。

1920年頃は、「モアナ・ホテル」のようなビクトリア様式の建築に人気があったが、「ロイヤル・ハワイアン・ホテル」は、厚いしっくい壁の地中海様式のデザインが選ばれた。建設費には400万ドルが投じられ、当時、太平洋最大の建設計画として注目を浴びた。

建設には約1年半かかり、数千個の砂岩の石塊、35,000バレルのセメント、75マイルの鉄線、50トンのしっくい、9,000ガロンのペンキなどが用いられた。

オープニング・セレモニーは、当時のファリントン知事をはじめ、黒ネクタイやイブニングドレスの紳士淑女、1,200人が参加した。晩餐やダンスには、ホノルル・シンフォニーが華を添え、その年ハワイ最大のイベントとなった。

1941年、ホテルは米国海軍の潜水艦乗組員の保養施設に指定され、一般観光客は宿泊出来なくなった。ホテル前の海岸は、日本海軍の進撃に備えて鉄線が張り巡らされ、同年12月7日の日本軍の真珠湾攻撃から1944年まで、ホテルは戒厳令が布かれた。

ホテルが海軍の保養施設となる前、ホテルの関係者は、それまで貯蔵してあったワインの貯蔵庫を厳重に閉鎖した。戦後、ワイン貯蔵庫を開けてみると、ワインは、そっくりそのまま、手付かずにあったという。

1959年、ホテルは「シェラトン」に売却されたが、1963年に「国際興業」(現地法人「京やカンパニー」)に転売され、現在に至る。

「ロイヤル・ハワイアン・ホテル」には、ルーズベルト大統領、ヘンリー・フォード、有名子役のシャーリー・テンプルなど、数々の映画俳優や著名人が滞在している。