ホノルル点描 マッキンレー高校
2009年06月28日
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オアフ島 ハワイで暮らす 学校、教室
第92回 第25代大統領に因んで付けられた「マッキンレー高校」
南キング通りのニール・ブレイズデル・センターの隣にあるマッキンレー高校は、1865年にダウンタウンのフォート通り教会の地下に〈フォート通り英語学校〉として創立した。
同校は、1895年にカメハメハ大王の曾孫にあたるルス王女の宮殿内に移転し、名前も〈ホノルル高校〉に改名された。
1907年には、ベレタニア通りとヴィクトリア通りの角に移転し、米国第25代大統領であるマッキンレー氏に因み、〈ウィリアム・マッキンレー大統領高校/William McKinley High School〉に改名された。
マッキンレー大統領は、ハワイ諸島をアメリカの統治国にすることに貢献したため、同大統領の功績を称え、1911年にマッキンレー大統領の銅像が校内に建立された。
1923年には、現在のキング通りの場所に移転し、PTAの働きかけで資金を募り、当時としてはハワイ最大の講堂が1927年に建設された。
1920年代には、プール建設計画が持ち上がり、生徒もツルハシやスコップを持って、プール建設予定地を掘り起し始めた。
しかし、資金ぐりのめどがつかなくなり、建設は一旦中止されたが、生徒らが中心となって募金活動で12,000ドルを集め、プールは1926年に完成した。
現在マッキンレー大統領の銅像は、管理棟の前にあるが、その周りの楕円形の芝生の部分(オーバル)は、横切ってはいけない校則になっている。同校では、毎年6月第1日曜日に卒業式が行われるが、卒業生だけが、卒業式当日のみ、この楕円形の芝生を横切ることが許されている。
近年、同校は600万ドルを投じて総合体育館を建設することを検討している。この計画では、2年以内に地鎮祭をして、2012年に完成を予定しているが、具体的なことは、まだこれから煮詰められる予定。
現在生徒数約2,000人のマッキンレー高校は、ハワイでも古い公立高校の一つで、数棟の建物が、国と州の歴史的建造物に指定されている。
同校の著名な卒業生には、ダニエル井上上院議員、ジョージ有吉元ハワイ州知事、オリンピック金メダリストでサーフィンの父と呼ばれるデューク・カハナモク、芸術家のサトル・アベ、プロレスラーで俳優のドウェイン・ロック・ジョンソンなどがいる。
ホノルル点描 クイーンエマ サマーパレス
2009年06月21日
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オアフ島 オプショナルツアー
第91回 宣教師の娘たちが守った「クイーン・エマ サマー・パレス」
ホノルルからカネオヘに向うパリ・ハイウェイの右側(ヌウアヌ谷公園の手前)にあるクイーン・エマ・サマー・パレスは、ジョン・ルイス氏により1848年に建てられた。建物の骨組みや壁板などは、ボストンで製材され、ホーン岬経由でホノルルに輸送された。
アメリカ東部とハワイの建築様式を融合したハワイアン・ビクトリアン様式の建物は、1850年にクイーン・エマの叔父にあたるジョン・ヤング2世に6,000ドルで売却され、ハワイ語で南十字星/カラマ神の養子という意味の〈ハナイアカマラマ〉と名付けられた。
ヤング2世には子供がいなかったため、1857年に没後、姪にあたるエマが、この家を相続した。
エマは1836年、カメハメハ大王の相談役だったジョン・ヤングの娘、ファニー・ケヘラ・ヤングと、ジョージ・ナエア酋長の間にエマ・ナエアという名前で生まれた。誕生後まもなく、母親の妹にあたるルーク夫妻の養子となり、エマ・ナエア・ルークとなった。
カメハメハ大王の弟のひ孫にあたるエマは、後にエマの夫となるアレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)やロット・カプアイア(カメハメハ5世)、ウィリアム・ルナリロ、デイビッド・カラカウアなどと共に王室学校に通い、王族としての教育を受けた。
1854年、アレクサンダー・リホリホは、カメハメハ四世として即位し、その後、幼なじみだったエマと婚約した。当初、エマは混血のため、女王には相応しくないという意見もあったが、1856年に結婚し、エマは女王になった。
当時ハワイは、外国人の持ち込んだ病気によりハワイアンの人口が減りつつあり、4世夫妻は事態が悪化することを懸念して、病院の必要性を訴えた。
夫妻は、募金活動をして13,000ドル余を集め、議会も六千ドルを設立資金として認めた。夫妻は、その資金で1859年にクイーン病院(現在のクイーンズ・メディカル・センター)を設立した。今年はクイーンズ・メディカル・センターの創立百150周年にあたる。
クイーン・エマは、ヤング2世から受け継いだヌウアヌの邸宅を夏の別荘(サマー・パレス)として利用し、1869年には、エジンバラ公の来訪に備えて、エジンバラ室を増築した。
夫妻は男児(アルバート王子)を設けたが、病気により4才で亡くなった。翌年、カメハメハ4世も亡くなり、クイーン・エマは、27才で未亡人になった。
クイーン・エマには相続者がいなかったため、1885年に49才で没後、別荘はハワイ王国に買収され、リースされた。
20世紀初頭、この別荘の一帯を野球の出来る公園にするという提案がされたが、非営利団体の〈ハワイの娘たち(Daughters of Hawaii)が、それを阻止した。
〈ハワイの娘たち〉は、ハワイの文化や伝統が失われるのを阻止し、ハワイの伝統やハワイ語、歴史的価値のあるものを伝承するために、1903年、プロテスタント宣教師の娘、7人で発足された。
〈ハワイの娘たち〉は、かつてクイーン・エマが使っていた家具、ピアノ、アルバート王子の揺りかご、ベビーベッドなどを別荘に戻し、建物も修復した。
1970年代に国の歴史的建造物に指定された別荘は、引続き現在も〈ハワイの娘たち〉により管理され、クイーン・エマの家族が使っていた調度品や歴史的資料などを展示した博物館になっている。
クイーン・エマ・サマー・パレスは、毎日午前9時から午後4時まで開館。祭日は休館。入場料は、大人6ドル、子供1ドル。
ホノルル点描 ハレクラニ
2009年06月14日
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オアフ島 ホテル
第90回 天国に相応しい館という意味の「ハレクラニ」
ワイキキのカリア通りのオーシャンフロントにあるハレクラニの歴史は、19世紀にさかのぼる。
19世紀後半、ホノルルで、〈ルワーズ&クック〉という材木業を営んでいたロバート・ルワーズ氏は、1883年に、現在ハレクラニがある場所に、木造2階建ての家を建てた。
ルワーズ氏は、とても寛容な人だったため、漁師たちが自宅の庭を通って海に行ったり、庭のハウの木の下で網を乾かすことを快く受け入れた。
彼の厚意に感謝した漁師たちは、彼の家をハワイ語で、「天国に相応しい館」という意味の〈ハレクラニ〉と呼んでいた。
ちなみに、ハレクラニに至るワイキキのルワーズ通りは、ルワーズ氏に因んで付けられた。
ホノルルのジャーナリストのエドウィン・アーウィン氏は、1907年にルワーズ氏から、この2階建ての建物を借り、〈ハウ・ツリー〉というホテルにした。これがハレクラニの前身である。
5つのバンガローを含むホテルは、客室21室、40人余を収容することが出来たが、滞在客はまばらで採算が取れなかったため、アーウィン氏は、賃貸し契約満了を機に事業から手を引いた。
このため、家主のルワーズ氏は、「ホテルの借り手を求む」という広告を出した。
クリフォード・キンボール氏は、当時ノースショアの〈ハレイワ・ホテル〉を夫人と共に運営していたが、〈ハウ・ツリー〉の広告を見て、1か月150ドルで借りる契約をした。
当初は、1日3人ほどの滞在客しかいなかったが、夫妻は、家族的で温かい、きめの細かいサービスを提供した。そのもてなしが口づてに広まり、次第に滞在客が増えていった。
事業が軌道に乗ったキンボール氏は、1917年にホテルを購入し、その後、近隣の土地も購入して敷地面積を広げた。
しかし建物が老朽化したため、1931年に16万ドル余を投じて、115室の建物に改築された。ちなみに、改築後、1940年頃の宿泊料は、3食付きで6ドルから9ドルだった。
キンボール夫妻が死去したのを機に、ホテルは1962年にシアトルのクラップ家に売却され、1981年には、三井不動産(現地法人ハレクラニ・コーポレーション)に転売された。
その後、ホテルの大改装が行われ、一1984年3月に〈ホテルズ&リゾーツ・オブ・ハレクラニ〉として新装オープンした。
現在、〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉というレストランがある場所は、かつてホノルルのシェリフだったアーサー・ブラウン氏の邸宅があった。
キンボール氏と作家のアール・ダー・ビガース氏は、ブラウン邸をよく訪れ、日没を眺めながら酒宴を重ねた。その酒宴にホノルル警察のチャング・アパナ刑事が加わることもあり、ビガース氏は、アパナ刑事をモデルにしたチャーリー・チャンという刑事を主人公にした〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉という小説を書いた。
〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉は、「鍵の無い家」という意味で、当時ホノルルは治安が良く、家に鍵をかけなくても盗難の心配が無かったことに由来している。
小説〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉は、ベストセラーになり、シリーズ化されて映画も作られた。レストランの〈ハウス・ウィズアウト・ア・キー〉は、物語の生まれたの場所であることに因んで名付けられた。
ハレクラニ・ホテルは、キンボール夫妻のきめの細かいサービスの伝統を引き継ぎ、現在も顧客サービスに定評がある。
ホノルル点描 ワヒアワの石
2009年06月07日
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オアフ島 ハワイで暮らす
第89回 癒しの効果があると云われる「ワヒアワの石」
ワヒアワのカリフォルニア大通りには、癒しの力があるといわれる3個の石が祭られた社がある。
社の一番右には、サーフボードを半分に切ったような形をしたもの。左端には、靴のような形をしたもの。中央には、おむすびのような形をしたものが置かれている。おむすびのような石は、石を移動した際に壊れたもので、元々は、2つの石だった。
これらの石は、かつてワヒアワの出産岩として知られるクカニロコ(ホノルル点描第87回に掲載)にあったもので、次のような言い伝えがある。
その昔、カウアイ島のある姉妹が、出産岩として知られるクカニロコを訪れることにした。2人には魔力があったので、魔力を使ってカウアイ島から飛んで来たが、魔力は夜しか効力が無かった。
クカニロコで遊びほうけていて、夜明けが近いのを忘れていた2人は、慌てて帰ろうとしてクカニロコの近くで石になってしまった。その2つの石が癒しの石になったといわれている。
20世紀初頭、クカニロコ付近の道路拡張工事の際、この2つの石が工事の邪魔になるので、いったん道の端に置かれた。
その工事を司った現場監督は、石を動かした夜に、石が、「足が上になって、頭が下になってしまった。どうか戻して下さい」と訴える夢を見た。
彼は、その石を動かしたハワイアンの人夫から、「この石には霊が宿っているので大切に扱うべきだ」と聞かされ、クカニロコのヘイアウ(神社)に移した。
1925年頃、この付近のパイナップル畑で働く労働者たちは、この石に病気平癒を願うと治ると言い始め、拝むようになった。
様々な民族の人がここを訪れ、日系人は日本式に、中国系は中国式に、ハワイアンはハワイ式に、それぞれの民族が慣れ親しんだやり方でお参りした。
石の前には、果物や食べ物のお供え、お賽銭などが置かれ、お香が焚かれたり、レイも手向けられた。参拝者が増え、お供えなどが腐って衛生上良くないことから、2つの石はワヒアワ墓地に移動されることになった。
その移動の途中に、サーフボードのような石が壊れてしまったので、中には、「石は動きたくないと思っている。動かさない方がいい」という意見もあったが、セメントで修復されてからワヒアワ墓地に移された。
その後、参拝者が益々増え、1か月に1,000ドル余がお賽銭としてあげられた。ワヒアワ墓地の所有者は、そのお賽銭で辺りを整備し、駐車場を造った。
その後、現在の108カリフォルニア大通りに移動され、神社風の屋根が造られた。1980年代後半には、この石の癒しの効果を信じる人の寄付により、神社風の屋根の代わりに、白い社が造られた。
この頃から、石がヒンズー教のシバ神に似ていると言われ始め、ヒンズー教の儀式がここで行われるようになった。ヒンズー教では、石にミルクや油をかける風習があり、石が油などでベタベタするようになった。
数年前、ハワイアンのグループは、「癒しの石は、余計なものをかけて、石を窒息させてしまったら癒しの効果がなくなる」と抗議し、また、「屋根の下に置くべきではなく、陽の光や雨風にさらすのが本来の癒しの石だ」と主張して、物議をかもした。
しかしその後、この二つのグループは、双方が石の癒しの効果を認めて歩み寄りをし、現在は、それぞれが、それぞれのやり方で参拝するようになっている。