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プロフィール

西川 幸夫
1939 年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。スケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。




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ホノルル点描 ABCストア

2008年12月25日 | オアフ島 ショッピング 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第66回 ワイキキの街角で必ず見かける「ABCストア」

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「ABCストア」は、日系二世のシドニー・コササ氏が、1964年、ワイキキのカラカウア通りに第1号店をオープンしたのが始まり。(2138 Kalakaua Ave. ANAビルの前に現存)

コササ氏は、1919年パロロ・ヴァレーに生まれ、幼少の頃からカイムキ10番街の両親の食料雑貨店を手伝っていた。マッキンレー高校卒業後、カリフォルニア大学バークレー校で薬剤師の学位を修得した。

薬剤師になるつもりだったが、第二次世界大戦が勃発し、カリフォルニア北部にあるトゥレ・レーク強制収容所に収容された。ここで奥さんのミニーさんと出会い、結婚した。

1949年、コササ夫妻は、カイムキに「スリフティ・ドラッグス」という名前の小さなコンビニエンスストア兼薬局をオープン。順調に売上を伸ばし、その後の10年間で4店舗のチェーン店となった。

コササ氏は、フロリダのマイアミビーチに出張した際、観光客がホテルの店より、地元の人が利用する雑貨屋で買物をしていることに注目した。将来ワイキキにも沢山の観光客が訪れることを見通し、観光客がホテルから歩いて行ける距離にある安価な雑貨屋の構想を思い付いた。

コササ氏は、「スリフティ・ドラッグス」の経験を元に、食料雑貨、お土産、絵葉書、薬、化粧品、衣類、アクセサリー、日用品、新聞雑誌、酒類など、観光客が求めるありとあらゆるモノを揃えた「ABCストア」をオープンした。

7店舗にまで拡張した「スリフティ・ドラッグス」は、他のドラッグストアとの激しい競争で閉鎖に追いやられたが、「ABCストア」は急成長した。

現在、ハワイに60店(内オアフ島には42店)、グアム・サイパンに10店、ラスベガスに6店、合計80店舗ある。全店年中無休で、早朝から深夜まで営業している。

シドニー・コササ氏は、従業員を大切にすることでも知られ、従業員も家族の一員と考え、社員を「ABCオハナ」や「アソシエーツ(仲間)」と呼び、社員をクビにしないことを誇りにしていた。

コササ氏は、2006年11月に86才で亡くなったが、次男のポールさんが取締役社長として後を継いでいる。現在、総従業員数は、千人余。「ABCストア」は、州のどの店より、マカデミアナッツ、日焼け対策製品、お土産の売上がある。

2006年10月15日、ハワイ島コハラ沖で起きた地震による影響で、オアフ島は、ほぼ一日停電になったが、「ABCストア」は、40店余営業を続け、ロウソクや電池、食料品などを買いに来る観光客や地域住民に対応し、地域に密着した店として再評価された。

上の絵は、クヒオ通りとカネカポレ通り角にある第21号店。

ホノルル点描 プリンセス・カイウラニ像

2008年12月18日 | オアフ島 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第65回 、ワイキキ、クヒオ通りとカイウラニ通りの角にある「プリンセス・カイウラニ像」

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ワイキキのクヒオ通りとカイウラニ通りの角に、カイウラニ王女の銅像がある。カイウラニ王女は、カラカウア王の末の妹のリケリケ王女とスコットランド人の父、アーチバルド・クレッグホーン氏の一人娘として、1875年10月16日、ホノルルに生まれた。

カイウラニ王女のフルネームは、ヴィクトリア・カヴェキウ・ルナリロ・カラニヌイアヒラパラパ・カイウラニ・クレッグホーン。カイウラニはハワイ語で、「王室の神聖な者」、「天国の最高峰」という意味がある。

カラカウア王は、カラカウア王家初めての女の子であるカイウラニ王女の誕生を喜び、ホノルル中の教会の鐘を鳴らして王女の誕生を祝った。
     
カイウラニ王女の叔母にあたるルス・ケエリコラニ王女が、カイウラニ王女のゴッドマザー(名付け親)の一人となり、まだ幼少のカイウラニ王女に、ワイキキの土地10エーカーを贈った。

父親のクレッグホーン氏は、この土地に2階建ての邸宅を建て、2台のグランドピアノや豪華な家具で飾った。この場所は、山からの涼しい風が吹き通るので、母親のリケリケ王女は、ハワイ語で涼しい場所という意味の「アイナハウ」という名前を付けた。

家にいたる道の両側には、ヤシの木が植えられ、庭には、バニヤン、モンキーポッド、ハイビスカス、マンゴー、珍しいスパイスの木などが植えられた。

カイウラニ王女は、バニヤンの木の下で時を過ごすのが好きで、庭に放し飼いにされた孔雀や陸ガメに自ら餌をやったり、白い子馬に乗って遊んだ。

また、ワイキキの海で泳いだり、サーフィンをするのも好きで、カイウラニ王女が愛用したサーフボードは、現在、ビショップ博物館に所蔵されている。

カイウラニ王女は孔雀をとても可愛がり、孔雀王女とも呼ばれていたことから、1998年8月12日、彼女に因んだカイウラニ通りの小公園に孔雀と一緒のカイウラニ王女の銅像(表紙)が建立された。

かつてのカイウラニ王女の邸宅、「アイナハウ」は、1955年に取り壊され、その場所に「プリンセス・カイウラニ・ホテル」(現シェラトン・プリンセス・カイウラニ・ホテル)が建設された。
     
カイウラニ王女は、日本のプリンセスになっていたかもしれないというエピソードがある。1881年(明治14年)、カラカウア王が日本を訪れ、赤坂離宮で明治天皇と面談をした。カラカウア王は、その時いくつかの提案をしたが、その一つが姪のカイウラニ王女と明治天皇の甥にあたる山階宮定麿親王(やましなのみやさだまろしんのう。後の東伏見宮依仁親王/ひがしふしみのみやよりひとしんのう)との縁談を提案した。

日本政府は、山階宮定麿親王には、いいなずけがおり、政府は国力増強に努めているので、そこまでの余力はないと丁重にお断りしたという。(因みに山階宮定麿親王の誕生日は、カイウラニ王女と同じ10月16日である)
     
1887年1月30日、ハワイ島の火山、マウナロアが突然噴火した。溶岩が辺り一面に流れ出し、海岸付近では、赤いアクレと呼ばれる魚がよく見られた。ハワイアンたちの間では、火山の女神ペレが怒り、アクレは、王族の死を意味すると、ささやかれる中、カイウラニ王女の母親のリケリケ王女が、突然食欲を失い、病名不明のまま床に就き、2月2日、37歳で亡くなった。カイウラニ王女は12才だった。

突然の母親の死に、王女は心を痛めたが、女王になるための教育を受けるため、1889年8月、弱冠13才で、イギリスの寮制女学校、グレート・ホローデン・ホール(後に廃校、現在はゴルフ場や会議室として使われている)に留学するために、汽船と大陸横断鉄道を乗り継いで1ヵ月以上かけて渡英した。

カイウラニ王女は、ラテン語、文学、数学、歴史が得意で、当初は1年間だけ留学する予定だったが、4年間留学することになった。

王女は、イギリス滞在中に、後見人や友人達と共にドイツに旅行し、ドイツの貴族や富豪の子息から求婚されたが、全て断ったといわれている。

彼女がイギリスに留学している間、ハワイ王国では様々な変化が起こっていた。1891年に、叔父のカラカウア王がサンフランシスコで体調を崩して亡くなり、カラカウア王の妹、リリウオカラニ王女が女王に即位した。

リリウオカラニ女王は、姪のカイウラニ王女を次の王位継承者に任命し、共和制派が強まる中、ハワイ王政を強める新憲法草案を閣議に提出したが、却下された。

王政復古に力を入れるリリウオカラニ女王に危機感を募らせた共和制派は、米軍の出動を要請してイオラニ宮殿を包囲し、翌日、共和制派は、王政廃止と臨時政府樹立を宣言した。

これを不服とした王政派支持者が反乱を起こしたため、リリウオカラニ女王は首謀者として逮捕され、イオラニ宮殿に8ヵ月間幽閉された。

反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、女王は女王廃位を強制され、1893年1月30日、ハワイ王国は終焉を迎えた。

その知らせを電報で受け取ったカイウラニ王女は、留学していたイギリスからニューヨークに渡り、共和制派の不当行為に異議を申し立てる声明を新聞記者に語ると共に、ワシントンDCのホワイトハウスで、クリーブランド大統領夫妻と会い、議会で審議してもらうように要請して、イギリスに戻った。

クリーブランド大統領は、議会にカイウラニ王女の要請を提出したが、却下され、1894年7月4日、ハワイはハワイ共和国となった。

悲嘆にくれるカイウラニ王女に、追い打ちをかけるように、幼少の頃からの友人で、「アイナハウ」に長い間逗留していた作家のロバート・ルイス・スチーブンソン(小説「宝島」の著者)が亡くなったという知らせが届き、王女は益々ふさぎがちになった。

1897年、静養のために、カイウラニ王女はハワイの「アイナハウ」に帰郷した。しかし、王女の体調がすぐれないまま、ハワイは、1898年8月12日、アメリカの統治領になった。
    
カイウラニ王女は、アメリカ軍が闊歩するホノルルに居たたまれず、その年の12月、友人のエヴァ・パーカー(パーカー牧場創立者、ジョン・パーカーのひ孫)の結婚式に参列するために、ハワイ島のパーカー牧場に行ったが、祝宴が数週間にも及んだため、王女は牧場に逗留した。

カイウラニ王女は、1月中旬、友人たちと乗馬に出掛けたが、途中で大雨に見舞われた。同行の人たちは雨具を着だし、王女にも雨具を着るように勧めたが、王女は、「何のために生きる必要があるの?」と言って雨の中を走り続けたという。

翌日王女は、高熱を出し、日に日に病状が悪化して行ったので、父親のクレッグホーン氏が、王女をホノルルの「アイナハウ」に連れて帰った。しかし、病状は益々悪化し、王女は、生死の境をさまよったあげく、1899年3月6日、この世を去った。

享年23才。

彼女が亡くなった時、庭にいた孔雀が人間が泣くような声で鳴いたという言い伝えがある。

ホノルル点描 ワイキキビーチ交番

2008年12月11日 | オアフ島 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第64回 正式名称は、「デューク・パオア・カハナモク・ビル」の「ワイキキビーチ交番」

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「モアナサーフライダー・ウェスティン・リゾート&スパ」の東、クヒオビーチのデューク・カハナモク銅像の西側にある「ワイキキビーチ交番」は、クヒオビーチ改善計画の一環として、2001年8月24日に設置された。

日本語では、通称「ワイキキビーチ交番」と呼ばれているが、正式名は、「ワイキキ警察分署」。また、この建物は、サーフィンの父とも呼ばれるハワイアン、デューク・カハナモクに敬意を表し、彼のフルネームの「デューク・パオア・カハナモク・ビル」という名前が付けられている。

デューク・カハナモクは、1912年、1920年、1924年の3回のオリンピックの水泳競技(フリースタイル)で3金メダルと2つの銀メダルを受賞。1934年から1960年までは、ホノルル市郡政府のシェリフを務めており、彼の業績や人柄を讃え、市議会で「デューク・パオア・カハナモク・ビル」という名前にすることが決められた。

「ワイキキビーチ交番」の建設は、ジェレミー・ハリス前ホノルル市長が、ワイキキの犯罪を減らすために日本の「交番」のような警察分署を建設することを提案し、市議会で建設が決められた。

「交番」という名前の由来は、警官が交代で立って番をすることに由来している。かつては、「派出所」や「駐在所」が正式名称だったが、交代で番をすることを「交番」、「交番」と呼んでいるうちに定着し、日本では1994年より正式名称になっている。「交番」は、シンガポールや中国にもあり、日本語の「コウバン」と呼ばれている。

ホノルルには、「ワイキキビーチ交番」に先駆けて、チャイナタウンのホテル通りとマウナケア通りの角に「チャイナタウン分署」が2000年5月19日に設置されている。この建物は、長年ホノルル警察署長を務めた中国系のダン・リュウ元署長に因み、「ダン・リュウ・ビル」と名付けられている。

これらの交番が建設される前は、ホノルル住民は、本署の緊急電話911に通報するしか手段がなかったが、交番設置後は、地域の犯罪減少に役立っている。

ホノルル点描 アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ

2008年12月04日 | オアフ島 オプショナルツアー 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第63回 戦争の悲惨さを後世に伝える慰霊碑「アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ」

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パールハーバーにある「アリゾナ記念館」は、1941年12月7日の日本軍の真珠湾攻撃により沈没した米海軍の戦艦アリゾナの乗組員1,177人を慰霊するために国定慰霊碑として1962年5月30日に設立された。

戦艦アリゾナは、空母加賀からの攻撃機が投下した爆弾が当たり火災が発生、更に右舷に爆弾が当り弾薬庫が爆発して艦の前方が大破した。

2日間炎上の後、沈んだアリゾナの前部は損傷が酷く、修理は断念されたが、後部の砲塔は無傷だったため、陸揚げされて海軍から陸軍に委譲され、アリゾナ砲台、ペンシルバニア砲台と命名されて、オアフ島要塞の砲台となった。終戦直前にこれらの砲台から試射が行われたが、以後実射されることは一度も無く、終戦後に解体された。

1950年、真珠湾攻撃9周年記念日に記念碑と国旗がアリゾナの残骸の上に掲揚され、1958年に現在の記念館を設立することが決められた。

記念館の建設には、連邦政府や州政府の基金、民間の寄付など、総額50万ドル余を要したが、1961年にエルビス・プレスリーがギャラを取らずに行ったパールハーバーでのコンサートの収益金、約6,500ドルも記念館建設に寄付された。

記念館は、戦艦アリゾナを横切るように設置され、大理石の壁には戦死した乗組員の名前が刻まれている。アリゾナの主砲塔4基の内、3基は取り除かれたが、1基の主砲塔リングは現在も水面下に見える。

戦艦アリゾナには、約530万リットルの燃料が積まれていたが、真珠湾攻撃から66年経った今でも、毎日約2リットルの燃料が漏れ出ており、「黒い涙」と呼ばれている。

アリゾナ記念館と向かい合って係留されているのは、「マイティ・モー」という愛称のある戦艦ミズーリ。戦艦ミズーリは、1954年9月2日、東京湾上で日本の無条件降伏後に調印が行われた歴史的な戦艦。

1994年に退役したミズーリは、この場所に永久係留されることが決まり、1998年6月にホノルルまで曳航された。その後、改装が行われて博物館に再建され、戦艦ミズーリ記念館となった。

毎年、12月7日には、今も戦艦アリゾナと共に眠る乗組員の霊を供養するために、アリゾナ記念館で追悼式が行われている。