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第58回 マノア日本語学校
(2008年10月29日)
第57回 カヒ・ハリア・アロハ記念廟
(2008年10月23日)
第56回 ハワイ天理文庫
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第58回 マノア日本語学校

2008年10月29日 | オアフ島 ハワイで暮らす 学校、教室 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第58回 現存するハワイ最古の日本語学校「マノア日本語学校」

58.jpg
マノア日本語学校は、1910年11月3日、おきむらこきち氏により設立され、12人の生徒に日本語を教えることから始まった。

当時ハワイはまだハワイ統治領で、ハワイ大学は創立3年目、マッキンレー高校は創立2年目を迎えたばかりで、ハワイの人口は19万人だった。

マノア日本語学校の敷地は、1929年3月にリリウオカラニ財団から購入し、同年校庭に松の木が植樹されたが、その松の木は現在でも2つの校舎の間に立っている。

1941年、第二次世界大戦勃発によりマノア日本語学校は閉鎖された。学校の5人の理事らは、政府から学校の引き渡しを強く要請され、度重なる圧力をかけられたが、確固に守り続けた。しかし、校舎は終戦の1945年まで政府の管轄下に置かれた。

多くの日本語学校は、第二次世界大戦中に学校の敷地を失ったが、現在マノア日本語学校があるのは、理事らが確固たる信念で学校を守り通したからである。

1948年5月、マノア日本語学校は、250人の生徒と共に再開した。1955年にはマノア小学校の建物を1,000ドルで買い、現在の場所に移築するのに6,000ドルかかった。また、同年校舎の裏にあった家を買い、校長の官舎にした。

1959年、ハワイがアメリカの50番目の州になった翌年、マノア日本語学校は50周年を迎えた。1962年、新校舎が設立されたが、松の記念樹は古い校舎の象徴としてそのまま残された。

最近では、マノア小学校とノエラニ小学校の生徒が放課後、安全にマノア日本語学校に通えるように、スタッフが両小学校まで生徒を迎えに行き、引率している。

学校では、日本語の授業が行われている他、校舎を利用してバレー、柔道、公文、ピアノの教室も開催されている。また、毎年、新年会、話し方会、運動会などの行事が行われるほか、毎年生徒たちがマノア・クリスマス・パレードに参列している。

現在生徒数は140人。オアフ島最大の日本語学校である。



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第57回 カヒ・ハリア・アロハ記念廟

2008年10月23日 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第57回 ハワイアンの祖先の眠る「カヒ・ハリア・アロハ記念廟」

57.jpg
ホノルル動物園入口付近、カラカウア大通りとカパフル通りの角にある「カヒ・ハリア・アロハ記念廟」は、2001年12月に建立された。

この記念廟の下には、1999年に行われたカラカウア大通りの水道管工事の際に発見されたハワイアンの祖先の遺骨、数百柱が埋葬されている。

また、ロイヤル・ハワイアン・ショッピングセンターの建設中に発見され、それまでビショップ博物館に大事に保管されていた遺骨も含まれている。

ハワイアンは、〈4〉という数字に特別な意味があると信じているが、4の倍数の〈8〉もハワイ文化では大変重要視されている。記念廟の八角形のデザインは、天空の聖なる星座の8つの星と、大地の8本足の蜘蛛、海の8本足のタコ、ハワイの主要8島を象徴している。

記念廟の前の碑には、「今日、ワイキキは、多くの海外旅行者が訪れる賑やかな場所になっている。ハワイアンは、この地に二千年ほど居住し、ワイキキには代々王族の住居があり、遊び場でもあった。ハワイアンの祖先は、この付近を実際に歩いていたのである。

近年、ワイキキの建設工事や発掘で、ハワイアンの祖先の遺骨が日の目を見るようになったが、先人の遺骨を敬うことは、祖先に敬意を表すことである。

国立太平洋記念墓地のパンチボウル、アリゾナメモリアル、パールハーバーがアメリカの戦没者に敬意を表する場所であるように、この記念廟は、かつてワイキキに住んでいたハワイアンの祖先の名誉ある安息地であると共に、彼らに敬意を表する場所として建立された。

「この静寂で神聖な記念廟に敬意を持って訪れて下さい」と書かれている。

ハワイ王室関連の日には、ハワイアンの先祖に敬意を表し、この記念廟の中央に火が灯される。



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第56回 ハワイ天理文庫

2008年10月16日 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第56回 ハワイ最大の日本語の蔵書を誇る「ハワイ天理文庫」

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ヌアヌ・アベニューの山手でオアフ墓地の隣、ハワイ王室陵の向いにあるハワイ天理文庫は、1954年5月、ホノルルに天理教ハワイ伝道庁が開設されたことにさかのぼる。

天理教ハワイ伝道庁は、当初から日本文化を紹介するために日本文化研究所を併設する計画を持ち、天理教海外伝道部から送られた本を陳列した図書室を伝道庁の一室に設けた。

1971年3月、天理教は、パリ・ハイウェイの天理教ハワイ伝道庁から1マイル海側の現在地、3.3エーカー(約4,000坪)の敷地を購入し、地域社会に役立つ文化活動施設の建設計画を始めた。

1979年からロビンソンレーン沿いの住宅を改装して図書室を設け、日本から司書を迎えて図書の分類や登録、貸出業務の準備を始め、ハワイ天理文庫は、1980年3月15日に開館した。

1983年7月には「官約移民資料展」を開催し、主にハワイ島移民資料館所蔵の資料が展示された。

1990年4月1日、旧プリスクール跡に移転し、読書室、事務所、新聞・雑誌コーナー、司書室が設置され、1993年からは、随想、新着図書を紹介する「ハワイ天理文庫ニュースレター」を年4回発刊するようになった。

1998年1月には、作家の陳舜臣氏の著書百十冊を集めた陳舜臣文庫が開設された。この陳舜臣文庫創設の世話取りをした元毎日放送事業局長で現在フリージャーナリストの宮田達夫氏の働きかけにより、2000年には、タカラヅカ・レビューライブラリーも創設された。

現在、ハワイ天理文庫には、各種全集、一般教養書、文学、ノンフィクションなど3万冊に加え、週刊誌、月刊誌、ビデオなどが蔵書され、会員に貸出している。

ハワイ天理文庫(電話538-7671)では、洋裁や工芸、書道などの教室も開催され、隣には柔道場もあり、当初の構想通り地域住民に密着した文化施設となっている。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第55回 えひめ丸慰霊碑

2008年10月09日 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第55回 えひめ丸の錨と九環の鎖よりなる「えひめ丸慰霊碑」

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カカアコ・ウォーターフロント公園の海の見える場所に設置された「えひめ丸」慰霊碑は、「えひめ丸」事件の起きた1年後の2002年2月9日に建立された。

2001年2月9日午後1時43分、ダイアモンドヘッド沖で愛媛県立宇和島水産高等学校の水産実習船「えひめ丸」は、緊急浮上した米国海軍原子力潜水艦グリーンビルに衝突され、エンジン周辺を損傷して5分程で沈没した。

「えひめ丸」に乗船していた35名の乗組員の内、実習生4名、指導教官2名、乗組員3名、合計9名の尊い命が失われた。衝突の際に海上に投げ出された26人は救出されたが、その内の1人が座骨骨折、11人が軽傷を負った。

事故後、アメリカのブッシュ大統領が森喜朗総理(当時)に謝罪した他、パウエル国務長官(当時)が河野外務大臣(当時)に電話で謝罪した。事故の約3週間後、アメリカ大統領特使ファロン海軍大将が大統領親書を携行して来日し、アメリカ側は全責任を認めた。

日本政府は、アメリカ政府に「えひめ丸」の引き上げを要請し協議が行われた。同年8月には、日本の潜水艦「ちはや」が、遺体捜索作業を行い、9人の行方不明者の内、8人の遺体を収容した。

同年10月15日から、「えひめ丸」を海底約35メートルの地点に移し、アメリカ海軍による船内捜索、回収作業が行われ、日本側に回収品を返還した。

同年11月、日本の海上自衛隊ダイバーが船内の最終確認をした後、アメリカ海軍が「えひめ丸」を海底約1,800メートルの深海に移した。

遺族などの要請を受け、愛媛県は、宇和島市とホノルルに慰霊碑の建立を決定し、事故発生一周年に、被害者9遺族25名、救出者4家族8名などが参列して、「えひめ丸慰霊碑除幕式」が行われた。

慰霊碑には、事故の経過と共に、「ここに、犠牲となった9名の方々のご冥福と世界の海の安全を祈るとともに、愛媛県とハワイ州、日本国とアメリカ合衆国の人々が相互理解を深め、親善友好が促進されることを願って、えひめ丸の錨と9環の鎖をこの地に残し、とこしえの形見とする」と書かれている。




西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第54回 クアキニ病院

2008年10月02日 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第54回 現存する米唯一の日系人設立病院「クアキニ病院」

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クアキニ通りにある「クアキニ・メディカル・センター」(通称「クアキニ病院」)の歴史は、1892年の「日本慈善協会」の発足にさかのぼる。

1899年、ホノルルのチャイナタウンにペストが蔓延したため、感染地域の焼き払いが始まったが、1900年1月、その火がチャイナタウン一帯に飛び火し、大火事となった。「日本慈善協会」は、着の身着のまま逃げ出し、着るものや食べ物がない数千人の日系移民を救済するために仮避難所を造った。

「日本慈善協会」は、病院建設のための募金を募り、カパラマ地区の半エーカーの敷地を購入した。1900年7月、木造2階建38床の「日本慈善病院」を設立したが、開院して2年間、常に満床状態だったため、1902年8月には、近隣の木造2階建40床の場所に移った。

しかし、ここも手狭になり、1917年に、大正天皇皇后両陛下の恩賜や地域住民の寄付により、現在地に、17棟70床の「日本病院」を建設した。

1931年には、「日本病院看護学校」を設立し、1学級約20人、3年間の研修課程が日本語で行われた。また、高齢で身寄りのない砂糖耕地労働者の介護をするために寄付を募り、1932年に、現在の「クアキニホーム」の前身、「ハワイ日本人養老院」を設立した。

1934年、昭和天皇皇后両陛下の一万円の恩賜により、1939年に、X線、手術、分娩設備完備の百床の病院に拡張し、増築部分は、「恩賜記念館」と名付けられた。

第二次世界大戦中は、「オアフ第147総合病院」と呼ばれたが、1942年に「クアキニホスピタル&ホーム」に改名。1951年には、エワ棟とワイキキ棟が増築され140床になったが、「日本病院看護学校」は、1955年の卒業生を最後に閉鎖された。

1975年には、「クアキニ・メディカル・センター」と改名され、1979年には、8階建の駐車場と医院ビル「クアキニ・メディカル・プラザ」が建設された。

1980年3月には、緊急医療と老人医療施設の「ハレ・プラマ・マウ」が建設され、屋上にはヘリポートが造られた。

「クアキニ病院」は、現存する米唯一の日系移民が設立した病院で、現在250床。最先端の技術を誇る医療施設である。



西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
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現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
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