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第44回 ワイアルア製糖工場跡
(2008年07月28日)
第43回 アラワイ運河
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第44回 ワイアルア製糖工場跡

2008年07月28日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第44回 砂糖生産の名残り「ワイアルア製糖工場跡」

sketch.jpg ノースショアのワイアルアにある「ワイアルア製糖工場」の歴史は、今から140余年前にさかのぼる。1864年、リーバイ・チャンバーレイン氏は、ワイアルアの空き地が砂糖耕作に適していることに目を付け、製糖工場を設立した。

 南北戦争時代、本土の砂糖生産が減ったため、この製糖工場は全盛を極めたが、1865年の南北戦争終結と共に衰退し、1870年頃、製糖工場は銀行に担保として取られた。

 1875年、製糖工場は、ロバート・ハルステッド氏が買い取り、「ハルステッド・ブラザーズ」という製糖会社を設立した。しかし、採算が合わず、会社は更に「キャッスル&クック社」に売却された。

 「キャッスル&クック社」は、工場を近代化すると共に、近隣の農地を購入したり賃借権を得て、1898年に「ワイアルア農業社」を設立した。1930年代半ばには、 「ワイアルア農業社」は、ハワイでも有数の製糖会社として全盛を極め、1万エーカ ー以上の砂糖耕地があった。1,700人の従業員は、敷地内の社宅に住み、この村は通称キャンプと呼ばれた。

 「ワイアルア農業社」は、1985年にデイビッド・マードック氏に売却され、「ド ールフーズ社」系列の「ワイアルア製糖社」を設立した。しかし、ハワイの製糖会社は、次第に賃金の安い外国との価格競争を強いられ、経営が厳しくなった。この情勢に引きつれ、1993年から「ドールパイナップル社」の経営陣が「ワイアルア製糖社」の運営も始めたが、経営は益々悪化し、「ワイアルア製糖社」は、1996年10月4日に閉鎖した。

 その後、「ワイアルア製糖社」の建物の一部は取り壊され、残りの建物は、現在「ドールフーズ社」の「ワイアルア・コーヒー」やカカオの乾燥醗酵工場となり、コーヒ ーを販売する店舗や、サーフボード工場、石鹸工場、自動車修理店などが入店してい る。

 かつてオアフ島には、この「ワイアルア製糖社」の他、「カフク・プランテーション社」 、「エワ・プランテーション社」、「ワイマナロ製糖社」、「ワイアナエ社」、アイエアの「ホノルル製糖社」、ワイパフの「オアフ製糖社」など、各地に製糖工場があった。 ワイパフの「オアフ製糖社」は、1995年に閉鎖したが、その工場跡の近くに、「ハワイ・プランテーション・ビレッジ」というハワイの砂糖生産の歴史博物館が1992年に設立され、現在週6日開館している。

 ハワイの砂糖生産は、1835年にカウアイ島コロアに砂糖きびの耕作をしたことから始まる。1837年、ここで初めて2トンの粗糖を生産して以来、ハワイの砂糖生産は、水不足、労働者不足、交易問題、市場不足など、様々な問題を抱えながら次第に発展した。

 砂糖生産が伸びるにつれ、労働者不足となり、1852年から、中国、ポルトガル、プエルトリコ、日本、韓国、フィリピンから沢山の人が労働者としてハワイに移住し、混血も生まれ、これらの移民労働者が、現在メルティングポット(人種のるつぼ)と呼ばれるハワイの多民族社会を形成する基盤となった。

 砂糖生産は、1876年には、年間1万3千トン、1932年には100万トン生産するようになり、以来1980年代中頃まで、毎年約100万トンの生産を続け、ハワイの主要産業として君臨した。しかし、ハワイの砂糖生産は、次第に外国に押され始め、衰退の一途をたどった。1990年代には、ハワイの製糖会社は次々と閉鎖し、現在は、カウアイ島とマウイ島に一社ずつ残すのみとなった。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第43回 アラワイ運河

2008年07月21日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第43回 世界のリゾート・ワイキキを生んだ「アラワイ運河」

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 ワイキキ図書館からアラワイ・ヨットハーバーまで流れるアラワイ運河は、ワイキキがかつて ヌアヌ、パロロ、マノアの小川の水が流れ込む沼地だった頃、水はけのために建設が計画された。

 ワイキキ周辺には、かつてタロ芋畑や水田があり、魚やアヒルもいたが、1900年代初頭、この一帯の沼地に蚊が大発生したため、保健衛生上の理由から沼地を干拓し、運河を建設することが決まった。

 干拓工事は1921年から始まり、運河は1928年に完成した。運河の建設により、山から流れ込む川の水をワイキキ沖に流さず、アラモアナ寄りの場所に流すことで、1平方マイル弱の現在のワイキキの敷地が生まれた。

 近隣の衛生のために建設されたアラワイ運河だったが、人工的に造られた川のため流れが遅く、1943年には、蚊を媒介して発生する伝染病のデング熱がワイキキで発生した。また、ホノルル都心部の排水溝の水も流れ込むため、川底にゴミなどが溜まり、バクテリアの発生も問題になり、これまでに何度も川底を浚渫している。

 2006年3月には大雨が続き、下水処理場が許容量以上の下水を処理出来ず、ハネマン・ホ ノルル市長が、下水を一時アラワイ運河に流すことを許可した。このため、暫くワイキキやアラワイ・ヨットハーバーの水に入ることを禁止する事態になった。

 現在もアラワイ運河の水に浸かることはよくないとしているが、カヌーの練習場としてよく利用されている。アラワイ運河沿いには、ゴルフ場、ハワイ・コンベンション・センターなどがあり、運河沿いの小径は、観光客や地元住民の散歩やジョギングの場所として利用されている。また、随所にベンチもあるため憩いの場所にもなっている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第42回 曹洞宗ハワイ別院正法寺

2008年07月14日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第42回 インドの寺院をモデルにした「曹洞宗ハワイ別院正法寺」


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 ヌアヌ通りの在日本国総領事館の海側にある「曹洞宗ハワイ別院正法寺」の歴史は、今から100年以上前にさかのぼる。

 1903年(明治36年)、砂糖耕地で働く日系一世の人を援助するために、日本から曹洞宗の僧侶、菅良雲師と河原仙英師がハワイに訪れ、菅師がカウアイ島に布教所を設立し、河原師がワイパフに仮布教所を設立した。

 1913年には、ホノルルのホール通りに「曹洞宗両大本山仮別院」を設立し、入仏式の後、1921年に正式に「ハワイ別院」として認証された。 1932年には、付属の日本語学校として和敬学園を創設した。

 1934年に、ヌアヌ通り(現在の場所)に2エーカーの敷地を購入し、別院新本堂建立の準備を始めたが、1941年12月7日の日米開戦により、布教活動は全て中止された。

 終戦後、ハワイの日系社会は大きく変貌し、一世よりハワイ生まれの二世の時代になり、戦前まで温存されていた日本の生活様式が次第にアメリカ化し始めた。 この変化に対応するために、当時別院の住職だった駒形善教師が、これまでの日本式の寺院ではなく、国際化社会に対応する本堂を建設する方針を打ち出した。

 1952年、釈迦の生誕地であるインドのブッダガヤの大塔を模した塔を中央に配し、洋式の寺院内装と設備を完備した現在の寺院が完成した。 設立当時は、ホノルルでも異彩を放つ建物として名所となり、しばらく本土からの観光客をはじめ、来訪者が絶えなかったという。 週末には、日系二世の仏式結婚式が行われ、1980年代後半までに500組以上の挙式が行われた。

 日本語学校としての和敬学園は1990年になくなり、以後は「曹洞アカデミー」という英語の小学校になっている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第41回 ダイヤモンドヘッド

2008年07月07日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第41回 年間約八十万人が訪れる「ダイヤモンドヘッド」


 
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 ワイキキの東側に位置するダイヤモンドヘッドは、約30万年前に起きた一度の噴火によって出来た死火山。 受皿型の噴火口は、約1.4平方キロメートル。 噴火中に風によって灰が南西部に吹き付けられたため、外輪山の南西部が最高峰になっている。

 噴火後、火口の外壁が風雨や打ち寄せる波により浸食されたため現在のような形になった。 ダイヤモンドヘッドは、その独特な形状のため、1968年に国立自然史蹟に指定された。

 ダイヤモンドヘッドの名前の由来は、1700年代後半、ここを訪れた西欧の探検家や商人が、噴火口壁面の岩石の中に方解石の結晶を見付け、ダイヤモンドと間違えたため、ダイヤモンドヘッドと名付けられた。

 ハワイ語では「レアヒ」と言うが、ハワイの伝説で、火山の女神ペレの妹のヒイアカ が、ダイヤモンドヘッドの頂上の形が、まぐろ(アヒ)の額(レア)に似ていること から、「レアヒ」と名付けたといわれている。

 ダイヤモンドヘッドの周りには高い山がなく、頂上からは沿岸がよく見渡せるため、 1904年に軍事目的のために連邦政府に買い上げられた。 1908年から、要塞の建設が始まり、最初にカパフル・トンネル(現在閉鎖中)が建設された。

その後、頂上に砲撃司令所、外輪山には砲台が5か所建設された。 この砲撃司令所と砲台は、オアフ島を外部の攻撃から守るために建設されたが、戦時中ここから一度も砲撃することはなかった。

1980年代には、年間約4万人が訪れるようになり、頂上に登るハイキング道の浸食が酷くなったため、1997年より、その一部を舗装したり、整備をしている。 現在は、年間約80万人が訪れる世界有数の名所になっている。

カイマナビーチホテルの前には、戦前、大正天皇御即位大礼記念として日本政府が寄贈した鳳凰の噴水塔があったが、戦時になり荒廃して取り壊された。 現在ある噴水は、卓越した企業家だったウォルター・デリンハム氏の妻のルイーズさんを記念して、かつての噴水跡に、1967年に建てられたもの。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。