第35回 元大映映画の国際劇場
2008年05月27日
|
アート オアフ島 ハワイで暮らす
第35回 今は教会となっている元「大映映画の国際劇場」
ホノルル・ダウンタウンのヌアヌ街とベレタニア街角に半円形の変わった建物があるが、ここはかつて大映映画の常設館であった。
戦前、アアラ公園周辺は日本館、ホノルル座などの日本映画上映館が何軒か並んでいた日本人町であった。 その一角に、映画輸入業者の木村宗雄氏は永田雅一大映社長の協力を得て、1941年にホノルル初の日本人の完全経営による、1,000人収容出来る映画館「国際劇場」を建設した。
大映常設館として順調な経営が続いていたが、1963年に打ち出されたククイ地区再開発によって少し離れた現在地に移転を余儀なくされた。 1964年12月11日に新国際劇場は開館、そのオープニング・セレモニーには、田宮二郎、藤村志保らのスターたち、永田雅一大映社長がステージで挨拶した。
その後も、大映の新作映画が次々に上映され、日系人の娯楽の殿堂として大いに栄えた。しかし、1971年に大映が倒産、それからはストックのフィルムを上映してい たが1973年、それも底をつき、中国系の興行主に売却した。
その後、その興行主も手放し、今はホノルルだけの独立教会「ニュー・ライフ・チャ ーチ・ホノルル」が持ち主、となっている。
教会になって内装はかなり変わっている が、ステージと観客席の半分近く、五百席は残されており、教会の催しを主に、他の教会関係のイベントにも開放されている。
西川幸夫 プロフィール
1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。
第34回 パンチボウル
2008年05月18日
|
アート オアフ島 ハワイで暮らす
第34回 国立太平洋記念墓地の「パンチボウル」
マキキにある死火山「パンチボウル」は、今から75,000年から100,000年前の火山活動により形成されたカルデラだと言われている。 その形がフルーツパンチなどを入れるボウルに似ていることからパンチボウルと名付けられた。
ハワイ語では、プウオワイナ(生けにえの丘)と呼ばれ、パンチボウルは、かつて生けにえを神に捧げたり、タブーを犯した者を処刑する祭壇として使われたことに由来している。
1948年2月、米議会は、パンチボウルを米軍戦没者を追悼する国立墓地にすることを可決し、1949年1月より、グァム、ウェーク島、日本の捕虜収容所などに埋葬されていた戦没者の遺骨がパンチボウルに埋葬された。
同年9月2日、パンチボウルは、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で戦死した兵士、34,000人の「国立太平洋記念墓地」と して創建された。 墓地に最初に埋葬されたのは、英雄的な従軍記者のアーニィ・パイル氏で、戦地の状況を克明にレポートし、その記事は広く読まれた。 彼は1945年、沖縄の西の伊江島で戦死し、彼の墓石(墓石番号D109) には、今でも多くのアメリカ人が敬意を表して訪れる。
第二次世界大戦中の1942年、日系2世だけの第100大隊と第442大隊が編成され、1944年にイタリア前線で戦ったが、パンチボウルには、この時戦った多くの日系兵士も埋葬されている。 日系兵士は、アメリカへの忠誠を示すために必死の突撃を行い、第二次世界大戦中、米軍の中で最も戦果をあげ、多くの勲章を受けた。 一方、戦死者は614人、負傷者は4,500人に及び、トルーマン大統領は、「敵に勝っただけでなく、偏見にも打ち勝った」と日系兵士の活躍を讃えた。
1966年、パンチボウルの正面には女王像が建立され、1976年には、国の歴史的建造物として指定された。 現在パンチボウルには、軍人だけでな く、故スパーク松永上院議員、ハワイ初の宇宙飛行士の故エリソン鬼塚氏など、44,000人以上の魂が眠っている。
西川幸夫 プロフィール
1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。
第33回 カラカウア王銅像
2008年05月12日
|
アート オアフ島 ハワイで暮らす
第33回 オアフ日本人官約移民百年祭委員会が建立した「カラカウア王銅像」
ワイキキのカラカウア大通りとクヒオ通りの角、「京やレストラン」前の三角公園(ゲートウェイ・パーク)にあるカラカウア王銅像は、1991年に「オアフ日本人官約移民百年祭委員会」により建立された。
日本人官約移民百周年に当った1985年は、各地で様々な記念行事が繰り広げられた。 このために募金が集められたが、余剰金があり、「オアフ日本人官約移民百年祭委員会」は、その活用を検討した。 日本人官約移民百周年の記念として後世に残るものとして、カラカウア王の銅像 建立や日本留学奨学金基金の設立などの候補があった。
カラカウア王は、世界一周旅行の途中、1881年に日本に立ち寄り、明治天皇に謁見した。 王は、ハワイの砂糖耕地の労働者不足を補うため、日本人のハワイ移民を懇請し、これにより約22万人の日本人がハワイに移民した。 「オアフ日本人官約移民百年祭委員会」は、カラカウア王が、日本人をハワイに招聘してくれたことにより多くの日本人がハワイに移民し、その子孫の日系アメリカ人が、現在各分野で活躍していることを踏まえて、カラカウア王への感謝の印として彼の銅像の建立を決めた。
銅像は、世界的に有名な彫刻家のイサム・ノグチに師事したハワイアン 系彫刻家のシャン・ブラウンの作品で、イタリアで創られた。 銅像は、1989年にハワイに到着したが、資金不足や建立場所の決定に難航したため、改めて寄付を募り、設計士、技術者などが無料奉仕した。
諸事遅れたため、当初予定していた11月16日のカラカウア王誕生日の除幕式に間に合わなくなり、除幕式は延期された。最初の944人の日本人官約移民は、1885年2月8日に「東京市号」でホノルル港に入港し、カラカウア王に迎えられた。 この第一回官約移民のハワイ到着日を記念して、予定より二年遅れの1991年2月8日にカラカウア王を「ハワイ日本人移民の父」と命名して称えると共に、王の銅像が設置された。
西川幸夫 プロフィール
1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。
第32回 ハワイ出雲大社
2008年05月05日
|
アート オアフ島
第32回 今年鎮座百周年を迎える「ハワイ出雲大社」
ホノルル市内ダウンタウンのククイ通りとヌウアヌ川の角にあるハワイ出雲大社は、神道の一教派である出雲大社教の教派神道の神社で、他の日系団体に類を見ない様々な経緯を経ている。
宮王勝良初代宮司は、1906年に広島県からハワイに移住し、同年9月6日に、島根県の出雲大社からの援助を一切受けずに仮社殿を造り、布教を始 めた。 1935年、勝良宮司没後は、子息の重丸宮司が二代目として後を継ぎ、出雲大社は、民衆の集会所としての役割も果たしていた。
第二次世界大戦中、危険人物とされる仏教僧、神道宮司、日本人ビジネスマンなどのブラックリストが内密に作られており、勝良宮司の家族もこのリス トに載っていた。 日本軍による真珠湾攻撃の後、勝良初代宮司の妻と重丸二 代目宮司夫妻は、サンドアイランドの収容所に強制収容され、後に本土の収容所に送られた。
宮司不在となった出雲大社は閉鎖せざるを得なかった。宮司や首席役員不在のまま、残りの役員たちは、出雲大社教団を解散することを政府の役人から 強制され、教団資産をホノルル市郡政府に寄贈した。 終戦後、宮王宮司一家は、本土の収容所から、社殿も住宅も無くなったハワイに戻った。 1946年にヤング通りの倉庫を借り、その半分を一家5人の住宅とし、残り半分に 仮社教を創設し、40席の椅子を設けた。
1952年、教団役員は、ホノルル市郡政府に出雲大社の返還を嘆願し、市議会は満場一致で返還を決めたが、公園娯楽局の元職員たちが返還阻止の訴訟を起こした。1952年から1961年まで9年間、法廷闘争が続けられたが、ホノルル巡回裁判所は、教団資産を出雲大社に返還することを最終判決とした。 翌年より改修工事の募金活動を始め、修復が完了した1978年まで続けられた。
当初の出雲大社は、現在よりリリハ寄りのパラマ再開発地区にあったが、現在の地所と1ドルで交換された。同年12月には、御神体をヤング通りの仮 社殿から現在地に移転した。 1969年の正月から初詣や七五三などの行事が行われており、現在は、天野大也宮司がハワイ出雲大社の宗教行事を司っている。 今年は、鎮座百周年を迎え、10月7日に100周年記念祭が盛大に行われる。
西川幸夫 プロフィール
1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。