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第20回 オアフ鉄道の始発ターミナル

2008年01月25日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第20回  かつての「オアフ鉄道の始発ターミナル」


oahutrain.jpg
 ホノルル・ダウンタウンの一角、アアラ公園の海手側にスペイン寺院風の2階建ての建物がある。 ここはその昔、オアフ鉄道のターミナルで、オアフ郡部への玄関口であり終着駅であった。

 ここから列車は、エワ、ワイアナエ、カエナ岬を経てハレイワ・ホテル前までの56マイルを片道2時間で結んでいた。 前方の一両か二両が客車で、その後にサト ウキビ貨車が途中で繋がれることもあった。 プランテーションで働く人や自作農の日系人たちが、移民宿への諸手続き、医師への検診、農工具などの買い物、送金のための銀行通いなどの所用の他、活動写真を楽しみに、美味しいものを食べに、また、この近くにあったイヴィレイの紅灯街に繰り込む者などで終日活気に満ちていた。このアアラ公園周辺には、小林旅館、九州屋、西海屋、山城屋、尾道屋、中村屋など の宿及び県人事務所があり、また映画館なども数多く並ぶ、日系人の一大拠点であっ た。

 列車の乗り心地について、「日本と比べると粗末な運輸機関だった。 鉄道線路の幅も日本より狭く、機関車も客車も小さく、ぞんざいな作り方で、田舎を走っている軽便鉄道より見劣りする汽車であった。 石炭ではなく重油を燃料に使っていたので速力は のろくて、乗り合い馬車に乗っている感じがした」と、ハワイタイムスの記者だった津島十吉氏は「ハワイ移民の子」(自著)に書いている。 戦争中には海軍基地への足 として軍人、徴用の学生たちも利用していたが、1948年に廃線となった。現在は 州の所有物で、カリヒ・パラマ地区の社会福祉オフィスとなっている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第19回 トーマス・スクエア

2008年01月21日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第19回  ハワイ王国の復古が宣言された「トーマス・スクエア」


draw-19.jpg
 ホノルル・アカデミー・オブ・アーツの向かいに大きなバニアンツリーが繁る 「トーマス・スクエア」がある。ハワイ最古の公園で、この地にはハワイの歴史的エピソードが秘められている。

 1840年代初頭、ハワイ王国のイギリス領事は貿易商リチャード・チャール トンという人物であった。 チャールトンは、ハワイ王国をイギリスの領土にし、イギリス商人が太平洋の貿易を独占できるようにと、その機会を狙っていた。 ハワイ政府と土地をめぐりいさかいとなったチャールトンは、それを口実にハワイに在住するイギリス人の危機と伝え、イギリス太平洋艦隊に救援を求めた。それに応えてイギリス海軍、パウレット公爵は二十六門の大砲を搭載した帆船でハワイにやってきて、カメハメハ三世にイギリスへのハワイ王国受け渡しを要求し、占領した。 カメハメハ三世は直ちにイギリス政府とパウレットの上官、リチャード・トーマス司令官に陳情の手紙を送った。

 パウレット公爵による占領は、カメハメハ三世の手紙がロンドンに届くまでの5カ月間続いた。公爵の行き過ぎた行為はイギリス政府、及びリチャード・トーマス司令官を憤慨させた。当時南アメリカのチリに配置されていたトーマス司令官は、イギリス政府の信義を守り、ハワイ王国の独立を再確立するため自らハワイへ。1843年7月31日、ハワイ王国復古が宣言され、ハワイの州国旗が再び掲げられた。カメハメハ三世のトーマス司令官に対する敬意は、その年の感謝祭に行われた有名な演説、「ウア マウ ケ エア オ カ  アイナ イ カ ポノ」(島々は正義を持って維持されたり)に表されている。そして王政復古の式典が行われたその場所は、司令官の名前にちなんで「トーマス・スクエア」と呼ばれるようになった。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第18回 アロハタワー

2008年01月14日 | オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第18回 今年80周年を迎えた 「アロハタワー」

 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」を毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?

 ホノルル港を望むアロハタワーは今年で80才になる。希少なハワイアン・ ゴシック建築で、高さは10階建ての56メートル。緑色の丸天井が頭にかぶさり、さらにその上に12メートルの帆柱が青空に上る。 4面についている時計とエッチングされたALOHAの文字はかなり遠くからでも見られる。 10階の展望デッキからはホノルル海岸のパノラマを楽しむことができる。

 旅行が海路で行われていた時代、アロハタワーはホノルル港に乗降する旅客を歓迎するために造られた。その頃ホノルルは既に裕福なアメリカ人やヨーロッパ人の間で人気の休暇場所で、ホノルル地域社会も港を中心に繁栄していた。 マトソンの豪華客船でアロハタワーに接岸すると、旅行客たちはハワイアンミュージック、レイ、フラダンサーに迎えられ、多くの住民も港に集まり盛大に歓迎セレモニーが行われた。

 しかし飛行機が主要な旅行交通手段となって、マトソンは1970年代に入ると客船の運行を中止、ホノルル港もアロハタワーも昔のような賑わいを失っていった。 ところがアロハタワー複合体計画がホノルル港の商業活動活性化プランとして持ち上がった。 1994年、海事時代の古きよきホノルルに面影を残すアロハタワーを軸としてアロハタワーマーケットプレイスがオープンした。 それによりホノルル港は港湾施設、歴史的建造物、ショップ、レストランが一帯となったオアフの一つの主要観光地として生まれ変わっている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

第17回 ワシントン・プレイス

2008年01月07日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠

第17回 州知事公舎の「ワシントン・プレイス」

 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」を毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?

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 ハワイ州政庁の向かいに建つ低木に隠れた白く堂々とした邸宅。ワシントン・プレイスは、ハワイ王国の最後の女王・リリウオカラニが余生を送った場所である。 この建物は1846年にニューヨーク出身の商船船長ジョン・ドミノスによって建てられた。 竣工後間もなくドミノス氏はシナ海で行方不明になり、ドミノス邸は妻のメリーと息子のジョン・オーウェンに受け継がれた。

 その後、アンソニー・テンヤックというアメリカ長官が来布し邸宅の客室に宿泊した際、この白い建物を見て、「マウントバーノンのジョージ・ワシントン大統領邸にそっくりだ」と言った事から、このドミノス邸はワシントン・プレイスと呼ばれるようになった。

 ジョン・オーウェン・ドミニスは成人後カメハメハ5世により王国政府の高官に任命され、そしてリディア・カパアケア(後のリリウオカラニ女王)と結婚。 だがジョン・オーウェンは結婚後間もなく亡くなってしまった。 王国動乱さなか、リリウオカラニ女王がイオラニ宮殿に監禁された際、ワシントン・プレイ スは王政復古支持者の拠点、そして反逆の戦闘武器の隠し場所として利用され た。 王位剥奪後、女王は宮殿からワシントン・プレイスに移り住み、1917年に逝去するまでの余生を送った。 その後は、歴代のハワイ州知事の官邸となった。

 外観は当時流行していた真っ白なギリシア復活様式。内装は曲線を使った繊細で優美なロココ様式の応接間、ドミノス氏が妻メリーのために中国で購入した家具で飾られた青の間など、各室様々な豪華家具で飾られている。リリウオカラニ女王はコアの木で作られたグランドピアノで有名な「アロハ・オエ」などを作曲した。 1922年に増築されたダイニングルームは24席あり、ベー ブ・ルース、クイーン・エリザベス、プリンス・フィリップや日本天皇などの著名人物たちが正餐をとった歴史を持つ。

 2001年に、ベンジャミン・カエタノ州知事とヴィッキー・カエタノ夫人が基金を募り、隣接して新しい知事官邸を建設、リリウオカラニ女王にまつわる重要な歴史を持つ旧ワシントン・プレイスを記念館として公開することを望んだ。 現在、新ワシントン・プレイスにはリンダ・リングル州知事が居住し、旧 ワシントン・プレイスはハワイの歴史を学びたい人たちに無料で開放されている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。



第16回 クアキニ・メディカル・センター

2008年01月02日 | アート オアフ島 ハワイで暮らす 

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第16回 日本人が設立した「クアキニ・メディカル・センター」

 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」を毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?

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 古くから「日本人病院」の愛称で親しまれ、今日ではハワイ全州民に解放されて、あらゆる医療に当たっている「クアキニ・メディカル・センター」は、もともと草分け時代のハワイ在留日本人のために建てられた慈善病院だった。

 19世紀後半、ハワイは砂糖キビ・プランテーション全盛期であった。7万人もの日本人がプランテーションの労働力になるべく太平洋を越えてハワイへ移民してきた。この時代、ハワイ住民の生活支 援は民族別のチャリティ団体が行っていた。

 日系のチャリティ団体 「ジャパニーズ・ベネヴォレント・ソサイエティ」は、ハワイ在住の病気や貧困、事故などで困っている日本人を援助する慈善団体として設立された。 これが後のクアキニ・メディカル・センターの先駆けとなる

 1899年の冬、ペストがチャイナタウンを襲った。翌年の1900年1月、感染地区は立ち入り禁止となり、さらなる広がりを防ぐため家屋が焼かれた。その際飛火し、何千もの日本人移民が家を失ってしまった。「ジャパニーズ・ベネヴォレント・ソサエティ」は被害者のための緊急救済活動をすると同時に病院を建てる計画を立て始めた。

 募金で集まった資金で、カパラマのサウスキング・ストリートに木造二階建ての「ジャパニーズ・チャリティ・ホスピタル」を設立した。その後患者数が増えるに従って何度か移動し、現在の地、クアキニ・ストリートに移転したのは1917年のことである。そして、病院名も「ジャパニーズ・ホスピタル」とした。

 1930年代に入り、日本人プランテーション労働者たちは定年を迎え始めた。その中には未婚の男性も多く、彼らには世話をしてくれる家族がない。そのような年配の男性たちに快適な生活環境を与えるため、地域の寄付により病院内に「ジャパニーズ・ホーム・オブ・ハワイ」が建てられた。 それが現在の「クアキニ・ホーム」である。

 日本人移民により生まれた病院は、戦時中は第147オアフ一般病院と呼ばれていたが、戦後になって、そして「クアキニ・ホスピタル」と改名され、日系人だけでなく、地域全体にメディカルケアを提供するようになる。その後も拡張し続け1975年に「クアキニ・メディカル・センター」と再度改名して現在に至る。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。