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第9回世界でも稀な海水の「戦勝記念プール」

2007年10月31日 | アート オアフ島 


「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠
 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」が、毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?
第9回
世界でも稀な海水の「戦勝記念プール」

 ダイアモンドヘッドを背後に望むワイキキの東端に、第1次大戦の戦勝記念プール (世界でも稀な海水の100メートルプール)が建設されたのは、1927年のことで ある。この年に開催された全米体育協会主催の国内競技大会をこけら落としとして以降、日本・アメリカ・ハワイなどの有名な選手を迎えた数々の世界的な水上競技大会の舞台となった。

 戦前には、1936年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得した前畑秀子らが、戦後間もない1949年には、古橋・橋爪らの日本水泳団がロスアンジェルスの日米対抗大会で偉勲を打ち立てた帰途ホノルルに立ち寄り、この戦勝記念プールで画期的な世界新記録を樹立した。

 1952年には、新東宝制作の映画『ハワイの夜』のロケーションに使用された。 『ハワイの夜』は、日本から水泳競技会のためにハワイを訪れた日本人青年と、日系人女生徒の、戦争をはさんだ悲恋を描いた作品である。 戦勝記念プールでのロケーション撮影は、数千人
もの在住日本人、日系人が参加しての大規模なものだった。

 老朽化によって1980年に閉鎖されてからすでに4半世紀が過ぎたが、「プールそのものが記念物である」と主張する人々と、莫大な予算をかけての維持修復を望まない人々の間で、未だに取り壊しか保存かの議論が行われている。


西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

公開日 : 2007年 10月 31日

第8回ファーストレディ・オブ・ワイキキ 「モアナ ホテル」

2007年10月24日 | アート オアフ島 


「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠
 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」が、毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?
第8回
ファーストレディ・オブ・ワイキキ「モアナ ホテル」
 ワイキキにおける第1号のリゾートホテル「モアナ ホテル」は、1901年3月1日の開業。 すでに100年を越えるが、今もカラカウア通り中央にひときわその優美な姿を誇っている。

 このホテルの建築様式は、「ハワイアン・コロニアル・スタイル」と呼ばれるもので、開業当初は木造5階建て、客室数75の本館のみであった。 1918年に鉄筋コンク リート造り6階建てのウィング棟を加え、客室数も226となり、現在のH形の建物となった。 その後幾度となく増築・改築が行われ、当初の容貌を全く変えてしまっていた。

 このホテルを国際興業が取得したのは1963年のこと。それから25年後の1988年に内外装・構造体・設備機器の劣化及び法規の変更に伴う防災の不備など改善すべき時だとして、約5千万ドルの巨費を投じて復元大改装工事に着手した。工事を担当したのは、東急建設と同社のハワイ法人パンパシフィック・コンストラクション・インク。

 工事を担当した宇佐見 博氏のモアナ ホテルの歴史的修復工事レポートは次のように記されている。


● 改修工事に先立ち
 改修計画に先立ち、3年にわたって既存建物の事前調査を行った。内外装の復元にあたり、ディテールがどの程度再使用可能なのか、構造体の劣化がどの程度進んでいるのか、設備機器は全面交換しなくてはならないのか、防災設備は整っているのか、スタッフによる入念な調査・検討がなされた。

その結果、
* 窓枠・手すりなどの装飾は、原形が取りはずされている部分が多く、完全な復元は困難であるが古い写真などから推測することによりある程度の復元は可能である。
* 天井などの装飾は、現存している部分が多く、修復することにより、復元は可能である。
* 1階ロビー付近の柱・梁は、構造上補強する必要がある。
* 客室数の割にエレベータが少なく、増設および高速化が必要である。
* 空気調和設備の機能劣化が目立ち、全面的な工事のやり直しが必要である。
* 現行の法規にあった防災設備を完備しなければならない。
* 空気調和・防災設備の変更に伴う電気設備の追加が必要である。
などが明らかになった。

 事前調査の結果、再使用可能な部分はできるだけオリジナルを使用して復元するという大前提のもとで改修計画を進めることにした。 さらに、デザイン的にモアナ ホテルの両側に位置する国際興業所有のサーフライダー・ホテルとオーシャン・ラナイ・ホテルの一体化を図ることにした。具体的には、ロビー機能をモアナ ホテルに置き、設備機器をサーフライダー・ホテルに据え付ける等で、3ホテルが統一された調和を持つようにした。

● 外装工事について
外壁:
 基本的には外壁のデザインを建築的に変更することは許されず、窓の大きさ・位置はオリジナルに忠実なものであることが必要条件であったので、サッシ(木製)や外壁(小巾板下見張りまたはプラスター)も既存のものを全面修理再塗装することとした。

車寄せ:
 オリジナルの車寄せは、建物全体を重厚に見せるハワイアン・コロニアル・スタイルの堂々たる構えであったが、改修前にはテントを用いたオーニングタイプとなっていた。ほかの部位ではある程度残っていたオリジナルのディテールもこの車寄せにおいては皆無に近く、写真を手がかりに復元するしかなかった。 写真といっても全景写真が現存する程度であり、詳細な部分は推測の域を脱することができなかったが、スタッフの「虫メガネ」をのぞくような作業の結果オリジナルの風格を持った素晴らしい車寄せが復元された。

玄関ポーチ:
 玄関ポーチも車寄せ同様、大きく様変わりをしていた。 アーチ・欄干は取り払われ、1世紀の間にホテル前面を覆うように成長して来た植栽により光は遮られ、うす暗い空間になっていた。アーチ、欄干を復元し、植栽も開業当初の高さにそろえることによりオリジナルの開放的空間を復活させることができた。

バニヤンコートヤード:
 かつてホノルルの社交の場として、パーティなどに利用されていたバニヤンコートヤード は、バニヤンの木が中央に位置し、海を見渡すことのできるワイキキ・ビーチのオアシスともいうべき場所で、多くの人々が集まって来た。このオアシスもバニヤンの木やそのほかの自然を遮断するように張りめぐらされたテントに覆われ宿泊客の求める憩いの場所というよりは、ナイトショーなどの会場として利用されていた。そのテントを取り払い、プールを新設し、ビーチ・バーを改造し、床にはヒマラヤ産の石を割り付けるという全面改修を行うとともにロビーからベランダに通じる空間に連続性を持たせるようにし、その名にふさわしい快適なオアシスが復活した。

マカイテラス:
 マカイテラスは、バニヤンコートヤードに付設された海を見渡せる快適なテラスであったが、 ほかと同様に昔の優雅な雰囲気をとどめていなかった。 欄干を修復し、床を修繕することにより、前記のバニヤンコートヤードと連続した快適なテラスとして復元させることができた。

屋根:
 本館が木造で、ウィング棟が鉄筋コンクリート造となっているため、屋根のジョイント部分に劣化が目立った。そのため、オリジナルを復元するというよりも新しく屋根をかけ直すことにし、とくに、本館とウィング棟のジョイント部分の納まりを吟味することにした。

その他:
 そのほか、カラカウア通りから見える外観は、その窓枠・欄干等の装飾のほとんどが原形をとどめておらず、車寄せ同様、写真による照合作業により復元を行なった。

● 内装工事について
ロビー:
 サービス・カウンターの増設などにより、ロビー・スペースは手狭になっており、中央の吹き抜けをより魅力的なものに見せるためにも、全面的な見直しが必要であった。 まず、ロビーでのエレベータ待ち時間を短縮するためエレベータを一基増設し、ロビーをより広く使用できるようにフロント・デスクをダイヤモンドヘッド側に移すことにした。

客室:
 オリジナルである本館の客室は、当時のホテルライフを反映し、長期滞在の宿泊客を対象に比較的ゆったりしたつくりになっていた。 しかし、ヨーロッパの古いホテルがそうであるように、バスルームが小さいなど、リゾートホテル向きとはいいがたかった。 また、ウィング棟の客室は、今日のシティホテルに見られるように部屋・バスルームともにコンパクトなつくりとなっていた。ホテルのグレードを上げるために、客室の面積を大きく取ることとし、今まで四部屋とっていたスペースを三部屋にするなどレイアウトを見直した。

コロニアル様式の装飾:
 ホテル内各所に見られた芸術品ともいえるコロニアル様式の装飾の復元にあたっては、オリジナルが石こうで造られていることもあり、そのまま復元することが非常に困難であるとの判断から、東南アジアから手彫り製品を輸入して対応することにした。

 翌年の1989年3月29日、大改装工事完成のセレモニーが盛大に開かれた。本紙4月15日号は次のように伝えている。

 この日午後3時半から、往時の姿に復元されたエレガントな車寄せにおいて、日本からかけつけた同ホテル・オーナーの国際興業(株)小佐野政邦社長、前社長の故小佐野賢治氏夫人、そして3月1日に国際興業の現地法人・京やカンパニーの代表取締役・副社長に就任したスタ ンレー高橋氏、パトリック・ベンジャミン・シェラトン・コーポレーション上席副社長、ケビン・ロイド・モロイ同ホテル総支配人、ワイヘエ州知事、ファシ・ホノルル市長夫人を始め取り引き関係者400名が出席、牧師のブレッシングとマイレ・カットが行われた。

 そのあと、海側の美しく改装された大バニヤンの木があるテラスに移り式典は続けられた。挨拶に立った小佐野社長は、「建設されて90年、多くの著名な方々を迎えた輝かしい歴史を持つモアナ ホテルは、既に老朽化して満足なサービスは出来ず、保安上の問題もあって建て替えをしたかったのです。しかし、連邦政府の歴史的建築物指定があり、近代的なビル建設は不可能ということで、重役会議でも閉鎖の意見もありました。

 しかし私は、国際興業が1963年からハワイでホテル業を始めてから今日まで、州当局、州民の皆様から頂いた温かいご支援、ご協力に対する感謝の意を込め、5千万ドルを投資して、建設当時の姿に復元、内部を近代的に改築する大工事を決意しました。今日、ワイヘエ州知事始め各界の方を迎え、そのオープニングを行えたことを感謝しております。また施工のパン・ パシフィック建設会社及び関係各位のご努力にも感謝しております。今後ともこのハワイの大切な自然と伝統と文化を守り、秩序ある経営を行っていきたいと思っています」 と挨拶した。

 なお、この完成と同時に、隣りのサーフライダー・ホテルと一体となり、名称を『シェラトン・ モアナ・サーフライダー・ホテル』に改められた。
(編集部注:現在の名称は『モアナ・サーフライダー・ウェスティン・リゾート』 です。)

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

公開日 : 2007年 10月 24日

第7回アメリカ唯一の宮殿 「イオラニ パレス」

2007年10月17日 | アート オアフ島 


「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠
 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」が、毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?
第7回
アメリカ唯一の宮殿 「イオラニ パレス」
 イオラニ宮殿はハワイ王朝7代目の王様カラカウア王の命により建てられた瀟洒な公邸で、1882年(明治15年)の完成から王朝転覆の1893年まで11年間その栄華を誇りました。アメリカン・フローレンス様式と呼ばれる美しい建物は、当時新進気鋭の建築家達のアイデアを融合し、最新鋭の技術を採り入れた新しい宮殿として世界の注目を集めたそうです。

 宮殿の1階部分は公式行事に使われる部屋で構成され、2階部分には王様の執務室のほか客間や寝室等の私室を配し、地階には執事部屋や厨房に納戸等も整えられ、たいへん機能的なつくりとなっていました。また最上階の広い屋根裏部屋は、階下の室温を涼しく保つための役割も果たしました。

 1893年、兄カラカウア王亡き後を継いでまだ日の浅いリリウオカラニ女王は、白人勢力の台頭を食止め王国の安定を願いましたが、思い叶わず王権放棄を強いられ、ハワイ王国は終焉の時を迎えます。太平洋の真ん中で、2転3転した政権交代劇と時代の波に翻弄されたハワイ諸島の運命と共に、イオラニ宮殿も波乱の道を辿りました。

 ハワイが1959年アメリカ合衆国の第50番目の州となり、新しい州政庁が建てられるまでの間約75年に亘り、議事堂や行政事務所として使われてきたのです。その後1969年に行政部が新政庁へ移転した後、その役目を終えたイオラニ宮殿は明け渡され、約10年の歳月をかけた修復作業を経て、立派な歴史博物館へと姿を変えたのです。現在は非営利団体〈フレンズ・オブ・イオラニパレス〉の運営によりたくさんのボランティアの手で護られ、その名「天空の鷹」が示す通りの美しさを世界中から訪れる人々に誇っています。


大広間
 エッチングの施された玄関ドアから中の大広間に入ると、目前に木目の美しいハワイ原産の木コア材でできた大階段が2階へと続いているのが見えます。そして両側の高い壁 にはカメハメハ大王をはじめとする歴代の王や王妃達の肖像画が掛けられ、広い空間にその威容を誇っています。宮殿の建築中に国家元首としては世界初の偉業となった世界一周旅行に出たカラカウア王は、各国よりたくさんのお土産の品を持ち帰り、壁の飾り棚にその一部を置いて美しさに華を添えました。この中には明治天皇より贈られた菊の御紋章入り有田焼の壺や、繊細な絵柄の七宝の壺もあり必見です。

応接室
 「青の間」とも呼ばれた小さな応接間は、リリウオカラニ女王のお好みであったロココ復古調の家具が品良く誂えられ、お茶会や音楽会など多目的に使われた様子がうかがえます。カラカウア王をはじめリリウオカラニ女王とドミニス殿下、英国のヴィクトリア女王や仏国のルイ・フィリップ国王の肖像画が飾られたこの部屋は、王朝転覆の折、リリウオカラニ女王が王位を退く決断を下した、歴史的にたいへん重要な部屋でもあります。そして食事の会に招かれた客はここでひと休みをして、既にその日のためだけに決められていた同席の相手と共に、大きなコア材の引戸が両脇に開かれるなか、正餐室へと進みました。

正餐室
 青の間とはうって変わって重厚な雰囲気の正食堂では、国内外から様々な賓客が招待され、長い時間をかけてフルコースの美味しい料理を楽しみました。フランス製の食器や銀器、ボヘミアングラスと呼ばれるチェコ製のクリスタルグラスに注がれる豊富なワインなど、一流の客に相応しいもてなしを心掛けたカラカウア王は、テーブルの中央に自分の椅子を置き、会話を楽しみながら世界の情報収集にも余念がなかったようです。青の間と同様この部屋にもカメハメハ三世、四世の時代に英、仏、独、露国などから贈られた各国君主の肖像画が飾られており、当時から大国と対等に外交していたことがわかります。

 この部屋に代表される重厚なゴシック復古調の家具は、カラカウア王が新しい宮殿のためにと特別注文したボストンのAHダヴェンポート社製です。部屋のすぐ外には配膳室と、階下の厨房から料理を運ぶ手動式のエレヴェーター、また当時画期的だった水洗トイレが設置されています。


2階広間
 2階中央部の広間は当時は居間として使われました。王族の方々がカラカウア王やリリウオカラニ女王を頻繁に訪ね、貴重な鳥の羽でできたマントや毛槍、珍しいハワイの工芸品の数々が飾られたこの場所で親しい食事会が開かれたそうです。当時はホノルル港 がすぐ目の前でしたから、南向きのヴェランダに出て港を行き交う船を眺めながら楽しいひと時を過ごされたことでしょう。 広間を挟んで両側に3部屋ずつ配されていたこの階は、西欧の宮殿に倣い片側を王様用、もう一方を王妃用と分けて使用したそうです。

国王寝室
 王様用の山向きの部屋は寝室だった所で、カラカウア王自身が撮影した貴重な内装写真を見ると、ヴィクトリア朝様式に誂えた当時の様子がよくわかります。 英国ミントン窯焼成による「プロメテウスの壺」や当時流行のスタイルだった寄木模様の折畳み式カード机、シノワズリーをあしらったサロン机などが写真と同じ場所に今も残されています。居心地良いこの部屋のクイーンサイズベッドでおやすみになった王様を、朝起こす係が居たそうです。

 キリスト教が伝来するまで文字のなかったハワイでは、口承文化が代々受け継がれてきました。 そして神の末裔であると考えられた王家の家系図は、名前の歌という形で詠唱になって残されたのです。世襲制の係がこの歌を詠いながらカーテンと鎧戸を開けると、部屋がすっかり明るくなる頃に気持ち良くお目覚めいただけるという寸法です。次に王様は身支度を整え隣の執務室へと向ったことでしょう。


執務室
 ライブラリーと呼ばれていたこの部屋の中央には大きな執務机が置かれ、読書家であった王様の膨大な蔵書の一部が棚の至る所に並んでいます。その中にはご自身で著された 「ハワイの神話と伝説」という本もあります。机上には諸外国の大統領や国王との間で交わされた書簡の写し、ウェブスター社初版の辞書、世界地図やインク壷なども置かれ、公務に励まれた様子が見てとれます。英語が堪能な上、他にも数か国語に通じていたという記録があり、有能な王様であったことは間違いありません。

 またこの部屋には当時の最先端といえる文明の利器・電灯や電話がいち早く採り入れられました。世界旅行の途中立寄ったパリの万国博覧会で、エジソン発明による電球の展示に出会ったカラカウア王は、イオラニ宮殿を世界に先駆けて昼間のように明るく照らしたのでした。


音楽室
 海側のもう1部屋は「金の間」の呼称通り、家具に誂えられた金色の生地が日差しに映える明るい部屋でした。ピアノやギター、ハープなどの楽器に囲まれ、流行のクラシック音楽やオペラを楽しまれたり、楽才を発揮され作詞作曲に勤しまれたりと、カラカウア王家は音楽一家としても有名だったのです。 特にリリウオカラニ女王は「アロハオエ」をはじめ百数十曲の作品を遺されました。

 この部屋には音楽と縁の深いフラダンスを踊る女性達を写した珍しい写真があります。本来神に捧げる神聖な踊りであったフラは、1820年代にやって来た宣教師達により「淫らな踊り」と烙印を押され、数十年の間人前で踊られることはありませんでした。しかしカラカウア王は先取の気鋭と共に伝統文化の継承にも力を入れた王様で、自身の誕生会の場でフラを所望しその復活に貢献したのです。 写真はその時の貴重な瞬間です。


幽閉の間
 広間を挟んで反対の部屋は元は二間続きの客間で、銅製の深い浴槽とシャワー付きの豪華な浴室が復元されています。しかし現在幽閉の間として当時を再現したこの部屋には、必要最低限の粗末な家具のみが置かれ物悲しい雰囲気です。王朝崩壊の2年後1895 年にリリウオカラニの復位を願う者達の反乱が起き、関与の疑いから国家反逆罪に問われた彼女は、結果的にこの部屋で約8か月間の監禁生活を強いられたのでした。

 大きなケースに展示されたパッチワークキルトは、その時に彼女が手慰みに作り始めたもので、ドレスの端切れ等が様々な形で縫い合わされたクレイジーキルトの手法に加え、たくさんのハワイらしいモチーフが刺繍されています。


王妃寝室:
 王様の寝室と広間を挟んで向い合うカピオラニ王妃の寝室は、趣味の良さが表れた気品ある部屋です。中国絹の深紅のベッドカバーに刺繍された王妃の御印には、彼女のモットーも縫い込まれています。お子様に恵まれなかった王妃は母体と乳幼児の保護を目標 に産院の設立を願われ、「最善を尽くす」というその言葉が示す通りに実現した産院は現在もカピオラニ病院と呼ばれ、産婦人科と小児科の最先端治療で知られた総合病院へと発展しています。

 物静かな王妃は義妹リリウオカラニを伴い、国王の名代として友好関係にあった英国ヴィクトリア女王の戴冠50周年記念式典へ参列されました。その時ロンドンで撮影された写真には、孔雀の羽根をふんだんに縫い付けた豪華なドレスに身を包むカピオラニ王妃と、ダイヤ を散りばめた蝶の形のブローチを髪に飾った王女時代のリリウオカラニが美しく微笑んでいます。そしてこの部屋にはもう一つ菊の御紋章を戴いた青銅の壺が飾 られていますが、日本でも数少ない珍しい品だそうです。


王座の間
 謁見などの公式行事や華やかな舞踏会が催されたこの部屋は、床一面に敷かれた絨毯やカーテンの色調から「赤の間」とも呼ばれています。美しく復元された他の家具と比較して王座の特に生地張り部分が見劣りするのは、今も亡き王の魂が宿るとの考え方から当時のまま手を付けずに保存されているためです。天井から下がる米国製クリスタル・シャンデリアは当初ガス灯だったものが、宮殿の電化の際に電灯に変わり今に至っています。

 香り高い花や緑で飾られた部屋に三々五々集まってきた招待客は、皆きらびやかな衣装に身を包みワルツやポルカに合わせて踊り興じます。夜9時から始まり真夜中の夜食をいただいた後、会は明け方まで続くこともありました。馬車に揺られて家路につく人々は皆、 宮殿での楽しいひと時を思い出しながら夢心地だったことでしょう。


 宮殿の地階に新しく設けられたギャラリーは、ドーセントの案内なしでも見学できるスペースとして時間のない方にも好評をいただいています。忠実に再現された執事の部屋や厨房を見ながら当時の人々の仕事振りを想像してみて下さい。写真ギャラリーではファッションを見比べたり、景色の違いを発見する楽しみもあります。ハワイらしいデザインも盛 り込まれた王冠や美しい輝きを放つ宝飾品、またカラカウア王ご自慢の勲章の数々にはきっと目を奪われることでしょう。

 しかし一番の見所は古代の王位の象徴類が飾られた部屋です。カメハメハ大王が所有していた黄色と赤の羽根でできたマントは、数百年の時を経た今も見る者を圧倒し続けています。日本の毛槍とよく似たカヒリや王族の女性達の胸元を飾ったレイ、儀式用の大太鼓など、ここにある品々には今なお「マナ」と呼ばれる神聖な力が宿り、神々の時代から綿々と続くハワイの歴史の存在感を我々見る者に訴えかけます。

文: 雪子 クルシアナ

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

公開日 : 2007年 10月 17日

第6回ハワイ最大の仏教寺院「本派本願寺ハワイ別院」

2007年10月10日 | アート オアフ島 


「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠
 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」が、毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?
第6回
ハワイ最大の仏教寺院 「本派本願寺ハワイ別院」
 パリ・ハイウェイ沿いに建つ仏教寺院「本派本願寺ハワイ別院」は、1916年7月30日に定礎式が行われ、1年半後の1918年2月に竣工、盛大な入仏式が挙行さ れた。 すでに87年になるが、その堂々たる白亜の大伽藍は、洋の東西から訪れる人々に畏敬の念と無量の感慨をもたらし続けている。

 親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派のハワイ宣布は、官約移民が開始された1885年(明治18年)から4年後の1889年のこと。 曜日(かがひ)蒼龍師が来布して ハワイ島の砂糖きび耕地を訪れたことに始まるという。 曜日師がホノルルとヒロに布教場を設立して帰国、数年後の1897年、京都の本山が正式に開教使として里見法 爾師を派遣した。

 里見師の任期は短かったが、その後を継いだ今村恵猛師は、1932年12月までの32年間、布教活動はもとより日本語学校、女学校、ホノルル仏青、仏教日曜学校の創設など、教学二途に多大な足跡を残し、今もハワイの本派本願寺教国の父として仰がれている。 この別院の前庭には、この今村師の銅像があり、訪れる人を温かく見守っている。

 1989年3月には大谷光真門主を迎え、開教百周年慶讃法要を盛大に行った。 現在、 同派寺院はハワイ全島に36カ寺あるが、この別院内にハワイ教団の本部がある。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

公開日 : 2007年 10月 10日

第5回 アラモアナ・パーク入口の「ルーズベルト門」

2007年10月03日 | アート オアフ島 


「ホノルル点描」画:西川幸夫 文章:イースト・ウエスト・ジャーナル永井雄治、榊原百合惠
 30有余年の歴史を誇るハワイのローカル情報誌「イースト・ウエスト・ジャーナル」に掲載された好評コラム「ホノルル点描」が、毎週ご覧いただけるようになりました。ホノルルの街のさまざまな風景を繊細なタッチで描いた印象深い1枚のスケッチに、あなたは何を思うでしょう?
第5回
アラモアナ・パーク入口の「ルーズベルト門」
 アラモアナ大通りとアトキンソン・ドライブの角(アラモアナ・センターの東端)、アラモアナ・パーク入口に白い門がある。その門には、今は知る人もほとんど無くなったが、ルーズベルト大統領の名が付いている。

 その昔、この一帯は低湿地でタロ芋畑や養魚場だったが、19世紀後半に中国人たちにより数多くのアヒルの池に変えられていた。1931年、ホノルル市郡政府が、この地域の開発に乗り出し、現在のアラモアナ・パークに整備され、その際に入口に造られたのがこの門である。

 1934年にアメリカ大統領として初めてハワイを訪れたフランクリン・ルーズベル トが、軍関係の行事の合間をぬって7月24日午後4時、この落成式に出席、テープカットを行なったことから、市郡政府は「ルーズベルト門」と命名した。「大統領がボタンを押すと、門柱前の噴水が勢いよく上がった…」と当時の新聞が伝えた噴水は、今は荒れたままである。

 ルーズベルト大統領は、この時にイオラニ・パレスにククイの木を植樹している。その後、1937年、41年と大統領選挙に勝ったので、そのククイの木は「幸運の木」と呼ばれている。

西川幸夫 プロフィール

1939年生まれ、1961~1994年、新日本製鉄に勤務。北九州や欧州の風景をスケッチ・淡彩画で製作。
北九州でスケッチ・淡彩画教室「四季彩」を主宰。郵便局の官製はがき9シリーズでもおなじみ。他に「ふるさと12景」のカレンダー画をはじめ、書籍の表紙画や挿絵を手がけその仕事は広範囲にわたる。
現在、山口新聞に「長門101景」、ハワイのローカル情報誌イースト・ウェストジャーナルに「ホノルル点描101景」、佐賀市「市報さが」に[思いでの風景]を連載中。
著書に画集「北九州101景」、画集「寅さんが旅した風景」、画集「延岡やすらぎ101景」がある。
2008年6月出版予定の画集「新北九州101景」、2009年秋出版予定の松本清張生誕100年祭 画集「清張紀行101景」(仮称)を目指し取組み中。

公開日 : 2007年 10月 3日